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章 9: タイマン

夜の森は、湿った土と草の匂いで満ちていた。

焚き火が弾ける音だけが響く静寂の中、

拳志は干し肉をくわえたまま、木の枝をへし折った。

「……おるな。はっきりこっち見とるわ」

アリシアが魔術式の準備を始め、レインが木陰に身を寄せる。

──そのとき。

「お前ら、人間か?」

低く、しわがれた声が、森の闇から響いた。

現れたのは、獣の耳と尻尾を持つ青年。

銀色の毛並みに、片方だけ裂けた耳。

鋭い赤い瞳が、焚き火を越えて拳志を捉えていた。

「……獣人?」

アリシアが警戒の構えを取るが、拳志は一歩、前に出た。

「なあ。お前は喧嘩売りに来たんか?」

獣人の青年は、薄く笑った。

「珍しいな。売られる前に買うやつ」

「こっちは客やのに、睨まれてるしな。そら買うわ」

その瞬間、風が割れた。

獣人の爪が、音もなく拳志の鼻先をかすめる。

直後、拳志の拳が反射で突き出すが空を切る。

気づけば相手は、背後に回っていた。

「遅いな、人間」

「速いな、トカゲ」

「……オオカミだ」

アリシアとレインが声を上げる前に、二人はぶつかっていた。

獣人の動きは、獣のそれだった。

地を這い、刃のように滑る。

拳志の拳がうなる。

空を裂くような一撃。

しかし、獣人の身が風のようにかわす。

その一撃をかわした流れのまま、獣人の上段蹴りが叩き込まれる。

拳志は両腕で受け止め、地面に深い跡が刻まれた。

「ちっ……!」

反撃に腹へ拳を突き込むが、獣人は身をひねって紙一重でかわす。

代わりに閃く爪が、拳志の頬を裂いた。

拳志は前傾姿勢のまま、相手を睨む。

(……チョロチョロしやがって。けど──速さだけちゃうな)

獣人もまた、鋭い眼光で拳志を見据えていた。

(……この拳、当たれば終わる。見切れなければ、俺の負けだな)

二人の距離が、少しずつ詰まる。

空気が、熱を帯びていく。

拳と爪、膝と膝、肘と肘。

骨がぶつかり、肉が揺れる音が続く。

頭突きすら交え、ゴツゴツと鈍い手応えが互いの身体を叩き合う。

拳と爪がぶつかり合い、火花のような音が夜を裂く。

地面がえぐれ、風圧で焚き火の炎が揺らいだ。

アリシアは思わず息を呑んだ。

「……なんなの、あの二人……」

レインも震える声で答える。

「速すぎる……あの獣人も、拳志さんも……怪物だ……」

二人の目には、拳志とガルドがもはや“異常な存在”にしか見えていなかった。

戦局は拮抗しどちらも下がらない。

その時、レインが咄嗟に符を描こうとする。

「封印魔法──!」

「手ぇ出すなッ!」

怒声が夜を裂いた。

拳志の一喝に、レインの手が止まる。

アリシアも結界を張ろうとした指を握りしめ、歯を食いしばった。

「これはタイマンや。邪魔すんな」

二人の視線だけが交差する。

血の匂いと汗の熱気が、焚き火の明かりを歪ませた。

互いの呼吸が荒く、今にも噛みつく獣同士の距離。

「……重そうな拳だな。くらったら、タダじゃすまない」

「お前、何発避けんねん。チョロチョロしやがって……!」

「だったら当ててみろ」

獣人が踏み込んだ。

その一瞬。

拳志は、わざと腹を開いた。

「拳志ッ!!」

アリシアの声にも、拳志は笑うだけだった。

「……思ったより、ええ動きやな」

獣人の蹴りが腹に突き刺さる。

だが──それを、拳志は掴んでいた。

「……獣のくせに、器用なことしよるやん」

獣人の瞳が、わずかに揺れる。

「しま──」

「──どつくで」

拳志の拳が、ゆっくりと、構えられる。

一瞬、風が止まったように感じた。

レインが息を呑む。

アリシアも、じっと拳志を見つめていた。

──空気が、静まった。

次の瞬間。

空気が爆ぜるほどの一撃が、真正面から獣人を捉えた。

そのまま地面を滑り、木をなぎ倒し、倒れる獣人。

アリシアが駆け寄りそうになるが──拳志が手をかざす。

「まだ終わってへん」

土煙の中から、獣人がゆっくりと立ち上がる。

口元から血を流しながら、ニヤリと笑う。

「……っぐ……クソ……まともに食らったのは久しぶりだ。……人間じゃねえな、あんた」

「お前もや。避けるだけやと思ったら、ええもん持っとるやんけ」

一瞬だけ、沈黙。

そして──獣人が背を向けた。

「いい土産になった。あんたの拳、忘れられそうにねぇ」

「名前ぐらい、聞いとこか」

「ガルド=フェンリス。獣人族の……まあ、いろいろあってな。お前らには関係ねぇよ」

アリシアが小さく目を見開くが、口には出さなかった。

ガルドは、夜の森へと歩きながら言った。

「また会おう。次は──ただの挨拶じゃ済まないかもな」

「おう。今度はもっとええ喧嘩しよな」

闇に消える背に、アリシアが問いかけた。

「あなた、どうして私たちを襲わなかったの?」

その答えは、闇の中から返ってきた。

「獣人には獣人の誇りがある。それだけだ」

静寂。

拳志は、どさっと地面に座り込んだ。

ゆっくりと息を吐く。

「ふぅー、やっと当たったわ。なかなかのスピードやったな」

レインが駆け寄る。

「お腹、蹴られてましたよね!? 大丈夫ですか!?」

「んー……腹筋割れたかも。ちょっとヒリヒリすんなぁ」

「それ、割れたっていうか打撲ですよ!!!」

アリシアが笑いながら、ぽつりと呟いた。

「……本当に、誰が相手でも……止まらないのね、あんたは」

拳志は空を見上げた。

しばらく、何も言わずにいた。

焚き火がパチ、と弾ける音が響く中──

(あいつとのタイマン思い出すな……)

拳志は、浮かぶ月をじっと見上げながら、静かに言った。

「この世界に来て、初めてや。……あいつとは、またやりたいな」


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