森の奥へ入ってからは、レインの小さな追跡灯りだけが道しるべだった。
点が一つ、また一つと先へ移り、やがてふっと消える。暗がりがほどけた先に、巨大な木の柵と重い門が立ちはだかっていた。
「止まれ!」
門の上から声が落ち、弓の弦が同時にきしむ。矢羽が微かに震える音が風に混じる。
アリシアは肩で息を整え、指先で結界の印を結びかける。拳志がそっと手首を押さえた。
「やめとけ。いきなり張ったら、ほんまに撃たれるで」
「でも──」
「話してからでも遅ない」
門の上では「撃て」「待て」と声が交錯し、視線が三人の胸元まで刺さってくる。
「……歓迎されてへんな」
「当然ね。人間が来たら、あいつらからしたら敵よ」
拳志は両手をゆっくり上げ、腹の底から声を飛ばす。
「おーい。喧嘩しに来たんちゃうで。ちょっと話したいだけや」
「ここは人間の立ち入れる場所じゃねぇ。とっとと帰れ」
「せやけどな、ちょっとだけでええねん。見たいんや」
「見たい、だと?」
「お前らみたいなやつが住んどる里。気になってしゃーないんや」
レインが小声で囁く。
「拳志さん、刺激しないで……」
アリシアも囁く。
「ここで揉めたら──」
そのとき、門の向こうから低い声が届いた。
「弓を下ろせ。そいつらを敵に回すと、痛い目見るぞ」
足音が近づく。
土を踏む重さが一歩ずつはっきりして、背後の焚き火がちらつくたびに、長い影が門前に伸びた。
「……ガルドさん……!」
門の上の獣人たちの声色が変わる。弦がわずかに緩み、視線の圧が少し引いた。
門が軋みながら開き、裂けた耳と鋭い眼をした銀毛の男が姿を見せる。拳志は目を細めた。
「お前……」
ガルドは門番の前で立ち止まり、短く言う。
「こいつらは俺の知り合いだ。通してやれ」
「……しかし、ガルドさん。人間を中に入れるわけには──」
「俺が保証する。拳を交わした相手くらい、信じられる」
門番が渋い顔でうなずく。
「あなたが言うなら……」
上から小さなざわめき。
「人間が“銀の牙”の知り合い…?」
「どんな関係だ……」
拳志が口の端を上げる。
「なんや。偉いんやなお前」
「うるせぇよ」
そう言いながらも、ガルドの声音にはわずかな柔らかさがあった。
三人が門をくぐると、里の息づかいが一気に近づいてきた。
広場の中心には大きな火台が据えられ、白い煙が静かに昇っている。
煙に混じって獣の体温の匂い、乾いた木と土の匂いが鼻に残った。
周囲には石と木で組まれた低い住居が連なり、屋根の縁には干した茅が並ぶ。
通りを行く若い獣人たちは槍や弓を抱え、三人とすれ違うたびに足を緩め、半歩分だけ距離を取る。
広場の端では白い毛の老獣人が膝をつき、石で槍の穂先を丁寧に研いでいた。
アリシアは声を落として言う。
「……静かすぎる」
ガルドが短く答える。
「外に出れば攫われる。今の里には、もう日常なんてねぇよ」
風が通り、火台の煙が少しだけ傾く。
張り詰めた視線がなおも三人の背を追う。
そのとき、広場の向こうから小走りの影が近づいた。
包帯を巻いた三人の獣人だ。銀、黒、褐色の毛並みが並び、その後ろには小さな獣人の子がついている。
アリシアを見るなり、子どもが駆け寄って裾をぎゅっとつかんだ。
「……来てくれた」
アリシアは膝を折り、目線を合わせる。
「無事でよかった。怖かったでしょう」
拳志を見た子どもの肩がぴくりと揺れる。
レインが慌てて笑って手を振る。
「だ、大丈夫だよ。怖い顔してるけど、彼が一番助けてくれたんだ。ほんとに」
黒毛の獣人が一歩前に出て、深く頭を下げた。
「さっきはすまない。誘拐犯の黒装束と間違えた」
褐色の獣人が続ける。
「子どもを守るつもりで……余裕がなかった」
銀色の獣人は視線だけで拳志を見る。
「だが、帰れと言っただろう…」
拳志は肩をすくめる。
「勘違いやったんは分かった。けど弱いもんばっか狙うんは、二度とするなや」
黒毛が唇を噛み、うなずいた。
「肝に銘じる」
そのやりとりに、後ろからガルドの声が挟まった。
「……なんだ。お前らもこいつとやったのか?」
三人が顔を上げる。
「お前らもって……ガルドさんも?」
「ああ。俺も最初は黒装束と間違えてな。見事に吹っ飛ばされた」
「ガルドさんが……?」
驚きが三人の顔に走る。
ガルドは鼻で笑い、拳志を横目で見た。
「こいつの拳、普通じゃなかっただろ?」
黒毛がゆっくりと頷いた。
「……はい。あれが本気なら、俺の頭は砕けてました…」
ガルドは三人と子どもを横目で確かめ、拳志たちに向き直った。
「……とりあえず、今日は俺の家に泊まれ。外で寝れば、間違いなく襲われる」
拳志が眉を上げる。
「外敵か?」
「それだけじゃねぇ。今は同族ですら、夜は互いを疑う。そういう空気だ」
「はぁ? ややこしいな」
「ややこしいんだよ。だから余所者は俺の影にいろ」
アリシアが小さく息を呑み、子どもの頭を撫でる。
「あなたはお母さんのところへ。もう大丈夫だから」
子どもは名残惜しそうにアリシアの手を離し、何度も振り返りながら母親の元へ戻っていく。レインがそれを見送り、ぽつりと漏らす。
「……里の中まで、怖がってる」
「そらそうやろ。攫われとるんやから」
拳志は短く言い、火台の煙の向こうに伸びる小路を見渡した。
家々の影から、いくつもの視線が揺れている。
門番の一人が近づき、ガルドに低く言う。
「入れたのはお前の顔だ。責任は取れ」
「分かってる」
ガルドは淡々と返し、三人に顎で合図した。
「こっちだ。目立つな。余計な口も利くな」
「はいはい。偉いんやなお前、ほんま」
「黙れ」
短いやりとりのあと、四人は里の奥へ歩みを進めた。火台の温度が背に離れ、木々の匂いが濃くなる。
遠くで槍を打つ硬い音が一度だけ響き、すぐに静けさに吸い込まれた。
ガルドの家へ向かう道すがら、拳志は一度だけ振り返った。
さっきの子どもが母の背に隠れながらも、こちらに小さく手を振っている。
アリシアが同じように手を上げ、レインは胸に手を当てた。
「……行こか」
拳志は目を細め、空を見上げた。
焚き火の向こう、どこか獣の匂いがする空気が漂っていた。