第2話:偽りの優しさ
[綾崎詩音の視点]
自宅の玄関で鍵を回しながら、私は深く息を吸った。100平米を超えるこの部屋は、怜士と私が一緒に選んだ思い出の場所。リビングの壁には、私たちが一緒に選んだ絵画が飾られ、キッチンには怜士がプレゼントしてくれたコーヒーメーカーが置かれている。
すべてが、嘘だった。
私は寝室に向かい、ドレッサーの引き出しを開けた。そこには、怜士がデザインした特別な婚約指輪が眠っている。二つ合わせるとハートになる、世界に一つだけのデザイン。
「永遠の愛の証だ」
そう言って私の指にはめてくれた日のことを、まだ覚えている。
私は指輪を手に取り、宅配業者の番号をダイヤルした。
「はい、配送の件でお願いします。花園玲奈様宛に、結婚式当日の午前9時ちょうどに届けていただきたいのですが」
住所を伝え、時間指定を確認する。玲奈がその指輪を受け取った時、どんな表情をするのだろう。
電話を切った後、私は怜士の実家へ向かった。
氷月家の玄関で、怜士の母が私を迎えてくれた。いつものように温かい笑顔で。
「詩音ちゃん、お疲れさま。あら、目が赤いけれど、大丈夫?」
私は慌てて目元を押さえる。泣き腫らした跡が、まだ残っていたのだろう。
「目にゴミが入っただけです。風が強くて」
「そう?怜士に何かされたの?あの子、時々鈍感だから」
怜士の母の心配そうな声に、私の胸が締め付けられる。この人は何も知らない。息子が既に他の女性と入籍していることも、今夜その女性と会う約束をしていることも。
「いえ、怜士さんは何も。本当に風のせいです」
「そう。でも何かあったら遠慮しないで言ってね。詩音ちゃんは私の大切な娘なんだから」
娘。
その言葉が、私の心に深く刺さった。
「怜士はまだ来ていないの?」
「ええ、仕事が長引いているみたい。詩音ちゃん、地下駐車場まで呼びに行ってもらえる?車の中にいるはずよ」
私は頷き、エレベーターで地下駐車場へ向かった。
駐車場に足を踏み入れた瞬間、怜士の声が聞こえてきた。電話をしているようだった。私は柱の陰に身を隠し、耳を澄ませる。
「ああ、玲奈。今夜は楽しみだ」
怜士の声が、いつもより低く、甘い。
電話の向こうから、女性の嬌声が漏れ聞こえる。
「これはあなたへのご褒美よ。今日一日、お疲れさまでした」
玲奈の声。私の婚約者を奪った女の声。
「今夜、思い切り可愛がってやる」
怜士の言葉に、私の血が逆流した。その声は、かつて私にささやいてくれた優しい声とは全く違う。獣のような、欲望に満ちた声だった。
私は拳を握りしめ、爪が手のひらに食い込むのを感じた。でも、痛みは怒りに比べれば些細なものだった。
電話が終わる気配を感じ、私は慌てて柱から出て、怜士の車に向かって歩いた。
「怜士さん、お疲れさま」
車から出てきた怜士は、いつもの優しい笑顔を浮かべていた。
「詩音、迎えに来てくれたのか。ありがとう」
その笑顔が、今は仮面にしか見えない。
食卓で、怜士は私の顔を窺うように見つめていた。
「詩音、さっき駐車場で、俺の電話……聞こえたか?」
私は首を振る。
「いいえ、聞こえなかったわ。仕事関係でしょう?」
怜士の表情が安堵に変わった。
「ああ、そうだ。実は、チャリティパーティーで君に着けてもらうアクセサリーを注文していたんだ。サプライズのつもりだったから、聞かれなくて良かった」
また嘘。
私は微笑みを浮かべる。
「素敵ね。楽しみにしているわ」
怜士の母が、美しい翡翠の腕輪を持ってきた。
「詩音ちゃん、これは氷月家に代々伝わる腕輪なの。お嫁さんになる方にお渡しするのが習わしで」
私はその腕輪を見つめた。美しい翡翠が、照明の下で神秘的に光っている。
「ありがとうございます。でも、結婚式の日にいただけませんか?その方が特別な気がして」
「そうね。その方がいいかもしれない」
怜士の母は嬉しそうに頷いた。
自宅に戻った後、私は生理痛を理由に早めにベッドに入った。怜士は心配そうに私の額に手を当て、薬を持ってきてくれた。
「大丈夫か?痛み止めを飲んだ方がいい」
「ありがとう。もう飲んだから大丈夫よ」
「そうか。ゆっくり休んでくれ」
怜士は私の頬にキスをして、部屋を出て行った。
私は目を閉じ、寝息を立てるふりをした。
30分後、玄関のドアが静かに閉まる音が聞こえた。
私は窓辺に立ち、猛スピードで走り去る車を見つめていた。爪が手のひらに食い込んでも、痛みは感じなかった。