朝、石畳の市場はもう人の声でいっぱいだった。
空を小さな配送鳥が行き来し、露店の魔法灯が薄く揺れている。
「昨日さ、南区で子どもの熱を下げた薬師がいたって」
「聖女見習いと一緒だったらしいぞ」
「いや、聞いたぞ。危ない調合だって。あれは一歩間違えば毒だ」
そんな声が往来に混じる。リリィが横で小声になる。
「……噂、早いですね」
「王都は足が速い」
ルークは肩のベルトを直した。
「形はすぐ変わる。中身だけ残ればいい」
「中身は残ります。昨日、ちゃんと見ました」
リリィは前を向く。
「今日も、助けましょう」
二人は薬師ギルドの扉を押した。
磨かれた床に朝の匂い。壁の薬草図、列をなして並ぶ瓶。魔法灯の光が静かに落ちる。
受付嬢が顔を上げる。
「おはようございます。昨日の南区から、報告が回っています」
「依頼は?」
「……複数、来ています。新人にしては珍しい数です」
後ろの机で帳面をつけていた薬師たちが、ちらとこちらを見る。
「例の、異端薬師か?」
「危なっかしい真似を……」
「でも治したんだろ?」
若い薬師がぽつりと言って、すぐ口を閉じた。
リリィが地図を開く。
「午前は西区の小診療所、午後は北の薬草買い付け補助が一件。どうします?」
「午前の診療所を先に。買い付けは日が高いうちなら間に合う」
「ルーク……だな」
低い声が背から落ちた。
振り返ると、濃色の外套を着た男が腕を組み、こちらを見下ろしていた。
肩章と徽章が目に入る。顔が利く上級薬師だ、と周りの空気が言っていた。
「F級が、ずいぶん早い」
男は近づく。
「噂は聞いた。奇妙なやり方で、熱を下げたそうだな」
「やり方はどうであれ、結果は一つです」
ルークは落ち着いて答える。
「苦しい子どもが、呼吸できるようになった」
「口が立つ」
男は鼻で笑った。
「奇妙なやり方は事故を生む。王都で薬師を名乗るなら、手順を守れ」
リリィが思わず一歩出る。
「でも——」
ルークが片手で制した。
「危ういかどうかは、結果で分かります」
空気が固まる。近くの机のペンが止まり、魔導秤の針が静かになる。
「なら、ここで見せてみろ」
男が顎で示した。奥の実演台。簡易の火口と器具が揃い、上には小さな魔導測定器が吊られている。
「題材は止血薬。正午前の診療で一番出る。支給薬草から選べ」
「わかりました」
ルークは台へ歩き、支給箱の蓋を開けた。
「止血苔、鉄根皮、凝光塩……十分だ」
男も隣の台に立つ。
「正統法でいく。新人はよく見ておけ」
人が集まってくる。列の向こうからも視線が伸びた。リリィが台の端に立ち、そっと息を吐く。
「始め」
二つの火が灯る。
男は迷いなく苔を煎じ、鉄根皮を刻む。
水温はやや高い。塩を後から一気に溶かし入れ、色は濃い赤褐色に落ち着いた。
ルークは手袋をはめ、道具を整えた。
「弱火。凝光塩は先に少量」
粉を指先に乗せ、鍋底へ溶かす。
水がわずかにさざめく。
「止血苔は繊維を開かせすぎない。表面だけ」
苔をほぐし、短く、浅く。
火から離す時間が自然と揃う。
「鉄根皮は薄く、数を揃える。渋みが勝つと遅く効く」
男の鍋が先に仕上がった。
瓶に移し、測定器に一滴。
淡い光が灯り、規定値に達する。周囲が頷く。
「安定してる」
「良い出来だ」
ルークの鍋では、泡の大きさと音が変わらない。リリィが小声で問う。
「今は?」
「塩の核を作っている。薬草が絡みやすい形に」
「……難しいこと言ってます」
「あとで図にする」
ルークは鉄根皮を三度に分けて入れ、最後にごく少量の凝光塩を指先から落とした。
色は薄い琥珀。濁りがない。
「瓶」
リリィが差し出す。ルークはうなずき、移した液を光に透かした。
「測る」
測定器に一滴。器が小さく、しかし長く光った。周囲の息が揃って止まる。
「……効能値が、高い?」
「見たことない色だ」
若い薬師が呟き、すぐ口を押さえる。
上級薬師は顔をしかめ、測定器に目を寄せた。
「偶然だ」
「偶然は繰り返せません」
ルークは瓶の蓋を締めた。
「診療所に回すなら、飲みやすさを少し上げた配合もある。子ども向けに薄香草をひとつまみ」
「規定外の甘味は、服用を逸らす…」
男は吐き捨てる。
「現場で判断します」
ルークは短く返した。声は荒れない。
ざわめきが遅れて広がる。
「本当に灯りが長かったぞ」
「正統法より澄んでた」
「でも危なっかしい手順だって言ってたろ」
保守派がひそひそと声を潜める。
若手は目の色を変え、机の影でこそこそとメモを取る。
受付嬢は帳面を閉じ、静かにこちらへ歩いた。
「実演、確認しました」
彼女は落ち着いて言う。
「記録は薬師長に回します。……関心を持ち始めています」
上級薬師は外套を翻し、背を向けた。
「王都にいるなら、監視を忘れるな」
短い足音が遠ざかる。
リリィが肩の力を抜く。
「……空気、重くなりましたね」
ルークは器具を片づけながら言った。
「すぐ仕事に戻る。噂も仕事も、行ったり来たりだ」
受付嬢が紙束を渡す。
「午前の診療所、午後の買い付け。どちらもあなたを指名しています」
「指名?」
「昨日の所長と、商会の仕入れ係から。……珍しいことです」
「行きましょう」
リリィが地図を持ち上げる。
「午前は西区のミルト診療所。午後は北の香草市場の奥です」
「了解」
ギルドを出ると、陽は少し高くなっていた。
風が香辛料の匂いを運び、翼のある馬が空を一度横切る。
通りの上階の窓に、黒衣の影が一つ、静かに立っていた。視線が重なる。
男の指が窓枠を軽く叩く。音は届かない。次の瞬間、影は奥へ消えた。
「今日も、見られていましたね」
リリィが横目で窓を見上げる。
「ああ」
ルークは歩調を崩さない。
「敵が増えるのは仕方ない。救う方が先だ」
「はい」
リリィは笑って地図を折りたたむ。
「助けながら、ちゃんと伝えていきましょう。飲み方も、やめ時も」
西区へ向かう道は人が多い。
屋台の魔導灯が昼でも細く灯り、配送鳥の影が石畳に落ちる。
耳の端で、また噂が跳ねた。
「ギルドで実演があったって?」
「光が長かったらしいぞ」
「いや、危なっかしいって話も——」
「中身は残りますよ」
リリィは正面を向く。
「だって、今日も誰かが笑うので」
「そうだな」
ルークは肩の荷を持ち直した。
評判は広まった。手の平は簡単に返る。
味方の目も、敵の目も増えた。
けれど、道は同じ方向へ伸びている。二人はその上を歩き続けた。
石畳の先、ミルト診療所の屋根が、午前の光に明るかった。