第3話:孤独な夜と偽りの証拠
雨が容赦なく降り続いていた。
刹那は一人、夜の病院へ向かった。頭から流れる血が雨水と混じり合い、頬を伝って落ちていく。暁は蝶子を連れて、とっくにどこかへ消えていた。
「あの......大丈夫ですか?」
受付の看護師が驚いた表情で立ち上がった。
「頭を打ったようで......」
「すぐに処置室へ!」
慌ただしく運ばれた処置室で、医師が傷口を確認する。
「五針縫う必要がありますね。CTも撮りましょう」
麻酔の注射が頭皮に刺さる。チクリとした痛みの後、感覚が鈍くなった。
針が皮膚を貫く音。糸を引く音。
機械的な処置を受けながら、刹那は天井を見つめていた。
検査結果を待つ間、点滴を受けることになった。深夜の病室は静寂に包まれている。
ブーン、ブーン。
スマホが震え続けた。画面には『暁』の文字が何度も点滅する。
十件、十五件......。
刹那は電源ボタンを長押しした。画面が暗くなる。
静寂が戻った。
点滴の雫が規則正しく落ちる音だけが響いている。
ベッドに横になりながら、過去の記憶が蘇ってきた。
三年前の春。些細な転倒で膝を擦りむいた時のこと。
「刹那、君は俺にとって一番大切な女性だ」
暁は優しく傷口を消毒しながら言った。
「妊娠や出産は別として、君の体にどんな傷跡も残したくない」
その時の彼の表情は、本当に心配そうだった。手も震えていた。
たった膝の擦り傷で、あんなに動揺していたのに。
今夜、頭から血を流している自分を、一度も振り返らなかった。
彼に捧げてきたこれらのことを、信じられないことに、一つも覚えていないらしい!
本当に皮肉なことだ。
スマホの電源を入れ直すと、蝶子からの新しい動画が届いていた。
今度は暁が蝶子の足を丁寧に洗っている様子だった。妊婦用の椅子に座った蝶子が、幸せそうに微笑んでいる。
『足がむくんで大変だから、暁さんが毎日洗ってくれるの♡』
刹那は一睡もできなかった。
翌朝早く、刹那は別荘に帰った。
玄関で執事の柏木(かしわぎ)が待っていた。
「お嬢様、お帰りなさい。夜神様がプールサイドでお待ちです」
「機嫌はどう?」
「あまり......よろしくないようで」
刹那は頷いた。予想通りだった。
プールサイドに向かうと、暁が蝶子を慰めているのが見えた。蝶子は涙を流しながら、暁の胸に顔を埋めている。
刹那の姿を認めると、蝶子はそっと顔を上げ、勝ち誇ったような微笑みを浮かべた。
「刹那」
暁の声が冷たく響いた。
「わざと蝶子ちゃんの居場所を彼女の父の敵に教えたんだろう?」
「何のことかしら」
「とぼけるな!」
暁はスマホを突きつけた。画面には写真が表示されている。
「数日前、君が中古品の買い手と会っていた時の写真だ。この男は影山家の敵対勢力の一員だった」
写真を見ると、確かに刹那がフリマアプリの取引で会った男性だった。ブランドバッグを売った時の相手。
「これは......」
「言い訳は聞きたくない」暁の目が怒りに燃えている。「蝶子ちゃんは俺にとって妹のような存在だ。なぜ八年も一緒にいた君が、彼女を傷つけるようなことをするんだ?」
妹のような存在?
刹那は内心で苦笑した。妊娠させた相手を妹と呼ぶなんて。
「私は頭を五針も縫う怪我をしたのよ」
刹那は包帯を指差した。
「それがどうした?」暁は全く意に介さない。「蝶子ちゃんの命に関わる問題だぞ」
八年間。そのうち五年は足が不自由になった彼の介護に費やした。献身的に尽くしてきた。
それなのに、彼女の怪我よりも蝶子の安全の方が大切だと言うのか。
刹那は全てを諦めた。
もう何を言っても無駄だった。証拠を突きつけられ、犯人だと決めつけられた今、弁解する気力も失せていた。
「暁」
冷たい声で名前を呼んだ。
「あなたが私だと決めつけたなら、はっきり言いなさい。どうしたいの?」