第5話:決別の準備
[竜ヶ崎詩の視点]
「隣の住宅街にある空き家、刹那さんに使ってもらったらどう?」
リビングで朝食の海鮮粥を前にして、私は蓮にそう提案した。
蓮の箸が止まる。
「え?」
「私名義の家よ。空いてるし、リフォーム中なら丁度いいでしょう」
あっさりとした口調で言う。本当に、どうでもよかった。
蓮は困惑したような表情を浮かべた。
「詩、お前……」
「海鮮粥、いらない」
蓮が作った粥を押しやる。
「体調が悪いのか?」
「別に」
立ち上がって、リビングを出ようとする。
「詩」
振り返ると、蓮が不安そうな顔をしていた。
でも、もう遅い。
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蓮は妻の変化に戸惑いを隠せずにいた。いつもなら、刹那の話題になると詩は不機嫌になるのに、今日は違った。
まるで、何もかもがどうでもいいような。
「奥様、お疲れのようですね」
家政婦が心配そうに声をかけてきた。
「そうだな……最近、様子がおかしい」
蓮は首を振った。妊娠のせいだろうか。でも、何かが違う。
「旦那様と刹那様、隣のお家に行かれましたよ」
家政婦の報告に、蓮は頷いた。
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[竜ヶ崎詩の視点]
家政婦から二人が隣家に行ったと聞いた夕方、蓮から電話がかかってきた。
「詩、今日は帰らない」
「そう」
「刹那が暗いのを怖がるから、付き添ってやる」
妻の誕生日前夜に。
「明日はお前の誕生日だろ?必ず帰るから」
電話が切れた。
静寂が部屋を支配する。
私は脚立を持ち出して、壁に向かった。
子供の写真。赤ちゃんのイラスト。妊娠を願って飾った全てのものを、一枚ずつ剥がしていく。
ビリビリと音を立てて破れる紙。
ゴミ袋に詰め込む。
「奥様……」
家政婦が心配そうに見ている。
「もう、いいの」
静かに言った。
本当に、もういい。
翌日の午後、神楽坂(かぐらざか)先生が来た。
竜ヶ崎家の顧問弁護士。
「離婚協議書の件で」
「はい」
応接室で向かい合う。
「財産分与についてですが」
「何もいりません」
きっぱりと答えた。
「本当によろしいのですか?相当な額になりますが」
「はい。何もいりません」
神楽坂先生が書類をまとめ始めた時、玄関の音が響いた。
蓮が帰ってきた。
「神楽坂先生?なぜここに?」
蓮が応接室に入ってくる。
「大したことじゃないわ」
私は立ち上がった。
「刹那さんは?」
「ああ、映画を見てるよ。ホラー映画なんだ。怖がりなくせに、なぜか見たがるんだよな」
蓮は楽しそうに笑った。
刹那の話をするとき、彼は本当に嬉しそうに笑っていた。あんな笑顔、最後に私に向けて見せたのは、妊娠を伝えたあの日。それ以来、一度も向けられたことがなかった。
「明日、誕生日プレゼント買いに行こうか」
蓮が私に向かって言った。
でも、もう遅い。
神楽坂先生が帰った後、私は蓮を見つめた。
「蓮、明日私たちは——」
その時、蓮の携帯が鳴った。
「刹那からだ。ちょっと待ってくれ」
電話に出る蓮。
「どうした?映画、怖かった?」
優しい声。
私には決して向けられない、優しさ。
電話を切った蓮が振り返る。
「詩、何か言いかけてたな?」
私は微笑んだ。
「何でもないわ。お疲れさま」
蓮は安堵したような表情を浮かべた。
でも、彼は知らない。
明日、全てが変わることを。