章 7: 紅い雨に濡れた夜、彰人の怒り
編集者: Pactera-novel
美月は堪えきれない怒りに立ち上がり、手にしていたグラスの赤ワインをそのまま穂香にぶちまけた。
穂香はとっさに身をひねったが、
完全には避けきれない。
深紅の液体が胸元にかかり、
ブラウスは瞬く間に透けて肌に張りついた。
――視線が集まる。
数人の男子学生が思わず目を奪われた。
穂香は反射的に彰人を見上げる。
彼は優雅にグラスを傾けながら、
冷ややかな表情のまま眺めている。助けようとする気配など微塵もない。
自嘲するように唇を歪めた穂香は、
そのまま手にしたグラスを振り下ろした。
「きゃっ！」
美月の顔に、冷たい赤ワインが容赦なく降りかかる。
「礼には礼を。お礼はいらないわ」
穂香は冷たく一言残して、踵を返した。
「斎藤！逃げるな！この女狐め」
美月が逆上し、今にも飛びかからんとする。
「美月！」
木村彩が大声で叫んだ。
陽翔が慌てて美月を引き留めた。
それでも美月は悔しさに歯ぎしりしながら、毒づく。
「斎藤穂香、この安っぽい女！」
「二度と私の前に現れないで、次に会ったら絶対にあなたを引き裂いてやるわ！」
「男に媚びるしか能のないくせに！」
――ガシャン！
重くグラスがテーブルに叩きつけられ、脚が折れて砕けた。
「彰人、あ手が……」
彩は驚いて叫び、慌てて心配そうに彰人の手を取ろうとした。
「大丈夫だ」
彰人は表情ひとつ変えず、ネクタイを引き抜いて血の滲む手をきつく縛り上げた。
「帰るぞ」
低く、威圧感に満ちた声に
彩は頷くしかなかった。
その場に残された陽翔らは、息を潜めて顔を見合わせる。
――空気が凍りついていた。
……
穂香は金砂浜を飛び出し、
ガラスに映った自分の姿を見て目に涙を滲ませた。
胸に残るのは、冷たい視線を向けてきた彰人の姿。
胸には痛みが走った。
期待などとっくに捨てたはずなのに、悔しさと虚しさで胸が締めつけられる。
運がないときには、水を飲んでも歯に詰まるというが。
タクシー乗り場に着いた途端、
空が裂けたような豪雨が降り始めた。
瞬く間にずぶ濡れになり、
穂香は空を仰いで苦笑した。
――もうどうでもいい。
そう思いながら、冷たい雨をそのまま受け止める。
そこへ、一台の黒い高級車がゆっくりと近づいてきた。
車の中。
「彰人様、奥様です」運転席の海斗が小声で言う。
彰人の視線はすでに彼女を捉えていた。
雨に打たれながらタクシーを必死に呼び止める、惨めな女の姿。
車は彼女の横を通り過ぎ、水しぶきを浴びせても止まらない。
しかし彼女は避けようとはしなかった。
その様子に、
彰人の胸の奥で炎が燃え盛る。
「彰人様？」
返事を待ちきれず、海斗が恐る恐る声をかける。
「放っておけ」
吐き捨てるような声は、刃のように冷たかった。
海斗は何か言おうとしたが、結局口を開く勇気がなかった。
関わらない方がいい。
「彰人……せめて乗せてあげましょう？この雨じゃ風邪を引いてしまうわ」
彩は眉を寄せ、繊細な手を男性の肩に優しく置き、窓の外で近づいてくる穂香を心配そうで見ていた。
「病気になればいい」
「彰人……」
「自業自得だ！」
彰人の怒声が車内に響き渡った。その言葉は窓越しに外へ漏れ、はっきりと穂香の耳に届く。
手を止め、顔を向けた彼女の瞳に映ったのは――
彰人の肩に寄り添う彩の姿だった。
黒い車は雨を切り裂き、彼女を置き去りにして走り去る。
穂香は両手を強く握りしめ、爪が掌に食い込む。
雨か涙か分からない雫が、頬を伝った。
……
楓山別莊
彰人は彩を家まで送り届けた。
「少し上がっていかない？」
潤んだ瞳で見上げる彼女を前に、彰人は短く首を振った。
「遅い」
拒絶の一言に、
彩の笑みが固まる。
それでも彼女はすぐに取り繕い、怪我をした彼の手を心配そうに見つめた。「手……ちゃんと治療した方がいいわ」
「必要ない、早く寝ろう」
素っ気なく言い放ち、背を向ける。
「彰人！」
呼び止めた声には、隠しきれない焦りが滲んでいた。
彼女は見ていた。
彼の目が、後ろ姿のままの穂香を追っていたことを。
穂香の惨めな姿をずっと見ていた。
「怒ってるの？」
沈北棠の瞳が鋭く揺れる。
彩は二歩前に進み、恐る恐る彼の腕を抱きかかえた。
彰人は何も言わなかった。
「美月たちは私のために……あんなことをしたの。悪気があったわけじゃないのよ」
「ふん」
必死に弁解する彩に、彼はただ鼻を鳴らしただけ。
心の底が読めない態度に、不安が広がる。
唇を噛み、彼女は無理やり笑顔を作って、「もし穂香が傷ついたことで怒っているなら、私から謝るわ……」
「謝る？謝る必要などない。悪いのは彼女だ」
彰人の言葉に、彩の瞳が潤み、
安心と歓喜が入り混じった涙が浮かぶ。
「早く休め」
「うん、気を付けてね」
雨に霞む車尾を見送りながら、彩は胸の奥で確信した。
彼は清水家の将来の家主であり、霧の都で名高い清水様だ。彼の尊厳と面子は誰にも冒されてはならない。
よく「犬を叩くなら飼い主を見ろ」と言うように。
――今夜の彼の苛立ちは、斎藤穂香のせいじゃない。
彼の誇りを傷つけられたからなのだ。
そうだ、
きっとその原因だ。
……
冷え切った身体で家にたどり着いた穂香は、
バッグの中を長い間探り、ようやく家の鍵を見つけた。
震える手でようやく鍵を開けた。
だが、閉めようとした扉を鋭い革靴が押し返す。
「……っ！」
顔を上げた瞬間、氷のような視線とぶつかる。
次の瞬間、男は無造作に扉を押し開け、土足で踏み込んできた。
「な、何を……！」
穂香は慌てて彼の前に立ち塞がり、震える声で叫んだ。「……出て行って！」
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