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斎藤詩織(さいとう しおり)は手の中の鍵をきつく握りしめ、酒臭いアパートの中を歩いていた。彼女は泥棒よりもはるかに落ち着かない気持ちだった。
こそこそと寝室に入ると、酒の匂いがさらに強くなり、ほとんど息ができなくなるほどだった。
ベッドに横たわる男性は斎藤詩織の夫——小林颯真(こばやし そうま)だった。今は酔いつぶれて意識がない状態だ。
結婚して三年、彼女は初めてこれほど真剣に彼の顔を見つめていた。
刀で削ったかのような彼の端正な顔立ちを見ると、胸が痛くなった。
詩織は義母から渡された薬液を取り出し、颯真の首を支えながら、ゆっくりと彼の口に流し込んだ。
ごくごく!
颯真の喉仏が上下し、薬液はすべて彼の胃に入った。
一滴も無駄にしなかった。
これをすべて終えると、詩織は心臓が胸から飛び出すほど緊張していた。
彼女は息を殺して颯真の反応を観察した。
義母は嘘をついていなかった。効き目は早かった。
義母に追い詰められていなければ、こんな危険なことをして颯真のところに来ることもなかっただろう。
「熱い……熱い……」颯真は無意識に自分の服を引き裂き始めた。
今だ!
詩織は深呼吸し、自分の服を脱いでベッドに上がり、颯真の腕の中に潜り込んだ。
颯真の強い酒の匂いのする息を嗅ぎ、彼女も酔ったようになった。
二人ともこの方面の経験はなかったが、子孫を残すのは人間の本能だ。
颯真が詩織の柔らかな体に触れると、まるで天性のように彼女の上に覆い被さった。
颯真は熱く焼けた鉄のようで、灼熱の体が詩織を押し付け、息もできないほどだった。
詩織は来る途中に心の準備をしていたが、颯真は発狂した野獣のようで、その痛みは彼女の耐えられる範囲をはるかに超えていた。
涙が静かに流れた。
しかしそれは幸せの涙だった。颯真と結婚して三年、彼女はようやく彼の女になったのだ。
耳元で颯真の優しい呼び声が聞こえた。「紫月(しげつ)...」
紫月?
詩織はハッと目を見開いた。
「紫月...」
今度ははっきりと聞こえた。
彼は彼女の体の中にいながら、別の女の名前を呼んでいた。
紫月、彼の心の中の人は紫月という名前だった。
颯真の夢の中で、彼女は別の女の代わりでしかなかった。
詩織は目を閉じ、本来なら彼女のものではない激しさを受け入れた。
これは彼らの初めての、そして最後の夜だった...
...
夜中、詩織は疲れた足取りで階段を上がった。一歩一歩が辛かった。
車の音で目を覚ました小林の母が扉を開け、詩織を見て驚いた。「詩織、どうして帰ってきたの?颯真とは...」
「お母さん、彼には会えなかった。」詩織は首を振り、鍵を小林の母に返した。
颯真が自分の母親に売られたことを知ったら、きっと怒るだろう。
「どうして会えないの?昇が颯真は接待の後で雨軒に行ったって言ったのに。間違えたんじゃない?」
小林の母の問いに、詩織は気まずそうに笑った。「たぶんそうですね。」
彼女は嘘をつくのが得意ではなかった。今は逃げるしかなかった。ばれないように。
「部屋に戻って休むよ。お母さんも休んでください。もう遅いから。」
「確かに遅いわね。今夜は上手くいくかと思ったのに...」
小林の母は嫁に余計なプレッシャーをかけないよう、それ以上は言わなかった。「まあいいわ。気にしないで、ゆっくり寝なさい。明日また考えましょう」
「おやすみなさい、お母さん。」
「おやすみ。」
小林の母は詩織が部屋に戻る姿を見送りながら、今夜の嫁の様子がどこかおかしいと感じていた。
会えなかったというのは嘘で、追い出されたというのが本当なのだろうか?
あれこれ考えた末、自分の推測が当たっているかもしれないと思い、ただ頭を振って溜息をついた。
詩織はお風呂に入り、疲れてはいたが全く眠気はなかった。
紙とペンを取り出し、真剣に「離婚協議書」を書き始めた。
詩織は颯真に何度電話をかけたか覚えていないほどだった。毎回彼の秘書である江口昇が電話に出る。
離婚協議書を書き終えてから三日が経っていた。
もうこれ以上引き延ばしたくなかった。今のうちに勇気があるうちに、早く事を済ませたかった。
江口さんは相変わらず事務的な口調だった。「奥様、社長は今とても忙しく、お電話に出られません。」
忙しいのは嘘で、彼女の電話に出たくないだけだろう。
詩織は以前、自分がこれほど嫌われているとは知らなかった。
自嘲気味に笑いながら言った。「あなたの社長に正式な話があるの。私を避ける必要はないわ。彼に伝えて、時間があったら家に帰ってきて欲しいって。サプライズが待ってるって。」
詩織の予想通り、颯真は彼女の電話に出たくなかった。
江口さんはすぐに詩織の言葉を颯真に伝えた。
彼は書類に目を通しながら、「サプライズ」という言葉を聞いて眉を上げた。
また何か企んでいるのか?
彼は詩織のサプライズに全く興味がなかった。
彼女がどんなことをしようと、彼は絶対に関わるつもりはなかった。
前田紫月が戻ってきた今、名ばかりの妻とは何の関わりも持ちたくなかった。
自分の結婚は左右できなくても、少なくとも自分の感情は左右できる。
...
詩織はさらに二日待ったが、颯真からの電話はなく、代わりに前田紫月が彼女に連絡してきた。
電話で「紫月」という名前を聞いた時、詩織は息をするのを忘れるほど驚いた。
紫月は横柄に言った。「私が誰かわかっているなら、もう自己紹介は必要ないわね。お茶でも飲みながら少し話しましょう。」
普通の愛人なら正妻を恐れるものだが、紫月のこの自信満々な態度に、詩織はかえって気後れしてしまった。
結局、紫月こそが颯真の愛する人で、自分は単なる妻であり、恋人たちを引き離す棒でしかなかったのだから。
詩織は丁寧に化粧をし、きれいに着飾って紫月に会いに行った。
紫月に負けたくなかった。
しかし、紫月を見た瞬間、彼女は完全に敗北したことを悟った。
紫月はあまりにも美しかった。背が高く、雪のように白い肌を持ち、一挙一動が人の目を引きつけた。
彼女はまるで清らかな雪蓮のように、自ら輝いていた。
詩織は紫月の前で緊張していた。
優雅な紫月と比べると、彼女は名家の令嬢なのに小間使いのように見えた。
「こんにちは。」
紫月は詩織を何気なく観察し、その目に一瞬の軽蔑の色が過った。
「颯真が愛しているのは私よ。この数年、あなたは辛かったでしょうね。でも大丈夫、離婚した後、颯真にしっかり補償させるから。」
詩織は紫月の態度が気に入らなかった。特にあの同情を含んだ視線は、まるで自分が哀れな虫けらのように感じさせた。
「前田さん、あなた勘違いしているみたいね。私こそが小林颯真の正式に迎えられた妻よ。あなたにそんなことを言う資格はない。たとえ私が彼と離婚するにしても、それは彼自身が私に言うべきこと。あなたが彼の代わりに話すなんておこがましい。」
紫月は高慢に言った。「もし私に資格がないなら、誰にも資格はないでしょうね。あなたが若くて経験不足なのは許すわ。颯真はあなたを愛していないの。自分の青春を無駄にする必要はないわ。あなたに合った人を見つける方が大事よ!」
「颯真は私にぴったりだと思うわ。私たちは家柄も釣り合っていて門戸も対等。他の誰かみたいに金持ちの家に嫁いで、枝に飛び乗って鳳凰になろうとしている人とは違うわ。」詩織は容赦なく皮肉った。「シンデレラの夢は誰でも見られるけど、誰もがシンデレラになれるわけじゃない。小林家は、あなたのような人が入りたいからといって入れる場所じゃないわ。」
紫月は怒った。「信じる?明日にでも颯真にあなたと離婚させることだってできるわよ!」
突然、小林の母が現れ、紫月を指さして怒鳴った。「この尻軽女!颯真はあなたに悪い影響を受けたのよ。彼と詩織は絶対に離婚しない。出て行きなさい!二度と江口市に戻ってこないで、出て行きなさい!」
「叔母さん...」
「叔母さんなんて呼ばないで!あなたもあなたのお母さんも下賤よ!」
小林の母は怒って紫月の頬を平手打ちした。
紫月は頬を押さえ、その場にひざまずいた。
「叔母さん……お願い、私を追い出さないで……何も求めません……颯真の家庭を壊すつもりはありません。ただ彼と同じ街に住んで……遠くから彼を見られるだけで……叔母さん、お願い……私を許して……」
何も求めないだって!
彼女が欲しかったのはずっと小林颯真という男だった。たとえ彼が他人の夫でも、彼女は手を緩めなかった。
小林の母は激怒した。「私が生きている限り、あなたは颯真に近づけない。出て行きなさい、出て行きなさい...」
叫んだ後、紫月を蹴った。
紫月は弱々しく、地面に倒れて心が引き裂かれるように泣いた。
彼女はもともと美しく、泣くとさらに哀れに見え、人々の同情を簡単に得ることができた。
カフェの客が集まってきて、皆が小林の母の乱暴さを批判し始めた。
「あなたたちに何がわかるのよ。他人の家庭の事情にとやかく言う権利はない。」
詩織にとって、小林の母はこれまで優しく慈愛に満ちた人で、大声で話すこともなく、ましてや人を罵ることもなかった。
彼女は小林の母がこれほど取り乱すのを見たことがなかった。
大勢の前で紫月に手を出すなんて。
紫月は悲しげに泣き続け、見物人はどんどん増えていった。
「お母さん、怒らないで。どうしてここに?」詩織はすぐに小林の母を引き留め、事態が大きくならないようにした。
このままニュースになったら見苦しいだけだ。
「来なければあなたがどれほど傷つけられるかわからないでしょう。離して!今日はこの尻軽女に教訓を与えるわ。彼女は私が二、三日で死んでくれればいいと思ってるのよ。そうすれば颯真を誘惑するのを止める人がいなくなるからね。」
小林の母は詩織を振り払い、紫月を捕まえて殴ろうとした。
彼女が上げた手は、空中で誰かに止められた。