田中彰は後部座席のミラーから彼女の顔を見つめていた。頬の赤みはなかなか引かず、大きな瞳はきらきらしていて、生まれつき上がり気味の目尻は笑みを帯びていた。今は真剣に運転へ集中し、表情にはいくぶん厳しささえ感じられたが。
「まだ君の名前を聞いていなかったな」田中は軽く咳払いをし、車内の静寂を破った。
話しながらも視線は彼女の目に注がれていた。しかしくきは前だけを見ていて、そのことに気づいていなかった。
吉田くきは唇を引き結び、真面目な調子で答えた。「修社長と同じように、私のことは吉田と呼んでください。あるいは英語名のクッキーでも」――名前なんて知られない方がいい、報復されたら困るから。
田中は小さく笑い、わざと聞き違えたふりをしてからかった。「小さな何?小さな豚?」
「……吉田です」くきは簡単に引っかかった。「祝英台の祝です」
彼女の唇が開いたり閉じたりするたび、赤みを帯びていて、まるで鮮やかな液体が滴り落ちそうなほど目を引いた。普段は彼女の瞳を見るのが好きな田中だったが、唇からも目が離せなかった。
――これは失礼だ。田中は自分に視線を逸らすよう命じ、ふと耳の小さな穴に気づいた。ひとつ、ふたつ、みっつ……全部で四つ。左耳に一つ、右耳に三つ。
なんて退屈なのかと田中彰は思った。こんな細かいことまで観察しているなんて。彼は携帯を取り出した。
すると突然着信音が鳴り、田中彰は画面を見た。自分のではなく、次の瞬間、前からくきの申し訳なさそうな声が届いた。「私の携帯です。すみません、うるさくして」
彼女はいつも「すみません」と言っていた。田中は気にせず、思いやりのある口調で尋ねた。「出た方がいいんじゃないか?」
くきは慌てて答えた。「いいえ、大丈夫です」
――運転に集中しなきゃ、また事故でも起こしたら大変。心臓がもう持たない。
着信音は切れるまで鳴り続けた。
落ち着きを取り戻した矢先、また着信音が鳴り響き、彼女の心臓は再び跳ね上がった。
田中彰:「本当に出なくていいのか?」
くきは困ったように言った。「ここは停めにくいので……」勇気を出して甲斐方の社長に頼んだ。「もしよろしければ、代わりに出ていただけますか」
音が鳴りやまず、本当にうるさかった。
田中は気さくに応じ、助手席のバッグを手に取った。
見た目は小さいのに意外と重い。ジッパーを開けると、タブレット、二台のスマホ、雑多な物でいっぱいだった。鳴っていたのはそのうちの一台。画面に表示された名前は「甘粕葉月」。
――田中社長って案外優しい人だ。外見ほど冷たくもなく、感情も乏しくない。くきはそう思った。
田中彰は電話を取り、スピーカーモードにしてくきが話せるよう前へ差し出した。
電話口の声はやけに大きかった。「で、その後どうなったの、くきさんよ?」
冒頭だけで、くきは甘粕の声だと分かった。嫌な予感しかしない。携帯を奪って切りたかったが、両手はハンドルから離せない。
「葉月、警告するけど、変なこと言わないで……」
だが忠告は遮られた。「あの高圧的なクライアント社長との後はどうなったの?ポップコーンとひまわりの種まで用意したのに、あなたどこ行っちゃったの?食事会はもう終わった頃でしょ?それでね、前回をおさらいすると、あなた、社長を盗撮して本人にバレたよね?それでそれで、その反応は?」
田中彰は眉を少し上げ、思わず声を漏らした。「盗撮?」
――さっき確かに盗撮された。今ハンドルを握っている彼女に。つまり、電話の女が言う「高圧的なクライアント社長」とは、自分のことか?
くきは死にたくなるほど恥ずかしかった。
――クライアント社長が今この車に!いや、私は彼の車に乗ってる……
火にかけられたように全身が熱くなったが、社長の命が自分の手にかかっていることを思い出し、無茶はできなかった。
「田、田中社長」涙声でくきは言った。「お願いです、電話を切ってください」
田中は気を利かせて通話を切り、しばらく静かにした後、わざと尋ねた。「クライアント、高圧的、社長って、誰のこと?」
くきは舌を噛みそうになりながら答えた。「あの子、小説に夢中なんです。冗談だと思って聞き流してください」
田中は笑いをこらえた。――君、盗撮したよな?友達が言っていたのは間違いなく僕だ。
だが追及はしなかった。盗撮も、彼女の下手な嘘も、全部面白かった。
あんな稚拙な嘘はすぐにバレる。ただの冗談みたいなものだ。
*
くきは気分が最悪で、車はどんどん遅くなり、ぎこちなく走ったり止まったりを繰り返した。田中は最初は平気だったが、やがて吐き気を覚えた。
彼は困らせるつもりはなく、少し考えてから遠回しに言った。「少し低血糖かもしれない」
「え?社長、めまいですか?」
「うん」田中はこめかみをさすりながら答えた。めまいというのも間違いではなかった。
「バッグに飴があります、食べてください」くきは緊張で喉が渇いた。――社長が自分の運転で体調を崩すなんて。気を失われたら説明がつかない。「病院に行きましょうか?」
ナビで近くの病院を探しながら言った。
「大丈夫だ」嘘をついてしまった田中は続けざるを得なかった。「深刻じゃない」
ため息をつき、演技をもっともらしく見せるためにバッグを開けた。中には色々な飴がぎっしり入っていた。
「どうしてこんなに飴が?」思わず本音が漏れた。
低い声だったが、車内は静かでくきにも聞こえた。「私、飴が好きなんです。どのバッグにも入れてます。おかげで地下鉄で低血糖の人を何度か助けました」
田中はミント味の飴を口に含み、清涼感が頭にまで抜け、少し楽になった。
さらに酔い止めシールも見つけ、ためらいながら尋ねた。「これ、一枚もらっていい?」
「どうぞ、使ってください」
くきは気前よく答え、ふと気づいた。――もしかして田中さん、低血糖じゃなくて車酔い?
待てよ。
もともと車酔い体質なのか、それとも自分の運転が下手すぎるのか?
分からなかった。
くきは聞く勇気もなかった。もう十分恥をかいていたから。
*
道中ずっと真っ赤になりながらも、くきは社長の命令どおり、無事に田中を目的地へ送り届け、髪の毛一本傷つけず任務を果たした。
車を降りると、最後まで知らないふりを貫き、手を振って微笑んだ。「田中社長、お気をつけて」
田中彰の姿が完全に見えなくなると、くきは仮面を脱ぎ、本性を出した。悔しさに足を踏み鳴らし、両手で拳を作って空中に振り回した。
――今夜この世界が滅びればいい。
甘粕を罵る言葉も見つからなかった。そのバカ女はまだ懲りず、LINEを送ってきた。【変だね、さっきの電話で男の声が聞こえた気がするんだけど】
小鳥はパクチーを食べない:【待ってろ、今からお前を殺しに行く】
タクシーを拾ったが、甘粕の元へ行くわけではなかった。働く者として、今は勤務時間中で勝手に動くわけにはいかない。
秘書は二十四時間、呼ばれれば応じなければならない。
ホテルに戻ったくきは疲れ果て、階下のカフェに寄って飲み物を買おうとしたが、偶然金田修に出くわした。副社長たちも一緒だった。
「あれ、吉田、もう戻ってきたのか」金田修は手を振った。
くきはこめかみがズキズキして、死地へ赴くような足取りで近づき、引きつった笑顔を浮かべた。「金田社長」
「何か飲みたいものがあれば好きに頼め。私の勘定につけておけ」修はテーブルをトントンと叩き、気さくに言った。「遠慮するな」
「ありがとうございます」
――聞かないで、聞かないで。くきは心で祈ったが、神様は無慈悲にも修の口を開かせた。「田中社長を送る道中、何も問題なかったか?」
もしシート調整で突然倒れ込むこともなく、スタートボタンが分からず助けを借りることもなく、甘粕から電話が来ることもなく、社長を車酔いで吐きそうにさせることもなければ……全部順調だった。くきはそう思った。