アペックスタワーにて。
岡村蓮(おかむら れん)はデスクトップを睨みつけていた。まるで自分の知性を嘲笑されたような気分だった。
画面に踊る見出しは、三流の昼ドラにも劣る茶番のように見えた。
『小野拓海、娘・小野澪を小野家から追放!』
『小野澪、華麗なる小野家からの劇的退場。その裏にある理由とは?』
『美しき令嬢・小野澪、今や正式に勘当され、無一文に——』
「……一体何があったんだ?」
蓮は呟き、目を瞬かせた。文字がスキャンダルでない何かに変わるんじゃないかと、ありえない期待を込めて。
だが、文字はそのままだった。
彼は椅子にもたれかかり、数時間前の朝を思い返す。小野澪が静かに直哉の社長スイートを出ていった、あの朝を。
あれは誰にも話せることではなかった。ましてや、上司である藤原直哉にはなおさらだ。
だが今、澪の名前が有名人の離婚騒動のようにSNSでバズっているのを見て、点と点が嫌でも繋がっていく。
「父親を本気で怒らせるようなことしたのか……まさか、あの夜のことがバレた?小野拓海が、娘が直哉と寝たことを知ったのか?」
その仮説を口にした瞬間、蓮の体にぞわりと震えが走った。
一気に不安が押し寄せ、蓮は勢いよく立ち上がり、自室を飛び出して社長室へ向かった。
ノックは二度、控えめで丁寧。それが彼にできる精一杯だった。
「入れ」
低くそっけない声が、ドア越しに返ってくる。
室内に入ると、藤原直哉は机に山積みされた書類に没頭していた。視線すら寄越さない。明らかに仕事に夢中だった。
それでも、蓮は一歩引いて立ち止まった。小野家が絡む話は、下手を打てば本当に何か飛んでくる。
彼はデスクから数歩離れた場所に立ち、念のため距離を取った。
「社長、私です。お忙しいですか?」
表向きは礼儀正しく、無害を装う声。だが内心は、悲鳴を上げていた。
直哉は顔も上げなかった。
「それが質問か、蓮?」
彼は蓮を緊張させるほど乾いた口調で返した。
「いえ、その……数週間前のことなんですが。新年会の夜……覚えてらっしゃいますか?」
蓮は慎重に言葉を選びつつ、一歩危険地帯に踏み出した。
直哉は書類にサインし終えるまでのわずかな間だけ手を止め、それからようやく顔を上げて蓮のパニックした表情と視線を合わせた。
「何か覚えておくべきことがあるのか?」
その視線と眉の動きが、誰かが後悔する直前の兆しだった。
蓮は一瞬、躊躇する。今ここで話すべきか?
それとも、バーにでも誘ってウイスキー片手に打ち明けるべきか?
彼は混乱していた。完全に頭が真っ白だった。
脳内でアイデアが迷子になっていたその瞬間——直哉の声が、チェーンソーのように蓮の逡巡を叩き切った。
「……ったく、蓮。無駄な時間を使わせるな」
視線を書類に戻したまま、苛立ちを滲ませた声で言い放つ。
「もう行っていい。山ほど書類があるって、お前が一番わかってるだろ。それなのに……混乱した新人みたいに突っ立って何してる?」
蓮は心の中で深いため息をついた。最悪のタイミング、というやつだった。
「社長……その、大晦日に誰と寝たか、覚えてますか?」
その一言は直哉の注意を引いた。
彼はサインの途中で止まり、ペンを不必要なほど劇的に置き、椅子に深く身を沈める。まるで蓮の続きを待つかのように。
「なんだ。誰か来て、社長の子できたとか言ってきたのか?」
直哉は冗談めかして言い、自分の冗談に乾いた笑いを漏らした。
当然、彼にとってはありえない話だった。彼が寝た相手は全員ピルを飲んでいる。それが暗黙のルール。ピルがなければ、スリルもない——。
だが、蓮の顔はさっと青ざめていく。ある考えが彼の頭を駆け巡る。
(まさか、本当に澪が社長と寝たあと妊娠して、それが理由で父親に勘当されたのか……?)
直哉は目を細めた。
「なんでそんな、浮気現場でも見られたみたいな顔してんだ?」
彼は冗談めかして尋ねた。
「社、社長……あの夜に社長が寝た女性ですが……会社が契約したばかりのスーパーモデルではありませんでした」
蓮は声を震わせながら言った。
直哉の眉間にさらに深いシワが刻まれる。記憶の底に沈んだ、あの夜のアルコールまみれの出来事を必死に掘り起こそうとする。
パーティーのことは、覚えている。ウイスキーの味も、記憶にある。でも女性は?まったく思い出せなかった。
「誰だったんだ?」
蓮はごくりとつばを飲み込む。
「小野拓海の長女です……」
「ゴホッ、ゴホッ!」
直哉は激しく咳き込み、顔を真っ赤にしながら目を見開いた。まさか、あの女が自分のベッドにいるなんて、思ってもみなかった。
「……蓮、お前もう俺の下で働きたくないなら、そう言え。こんなくだらない冗談を言う必要はない」
「社長、冗談じゃありません。本当に、悪気はなくて……あの朝、スイートに行ったとき、ドアを開けたのは彼女でした。靴も履かず、慌てた様子で……まるで社長に見つかるのが怖いみたいに逃げていきました」
蓮はなんとか信じてもらおうとした。だが、言えば言うほど荒唐無稽に聞こえるのは自分でも分かっていた。
本当に、あの瞬間は自分も直哉と同じくらい驚いていたのだから。小野澪が、あの部屋から出てくるなんて——
……
直哉は一言も言わなかった。
彼は立ち上がって、そして背後のガラス壁へ歩み寄り、交通渋滞の街並みをぼんやりと見下ろした。
脳裏に浮かぶのは、あの朝の記憶。寝た相手の顔を見なかった、唯一の朝。目覚めたとき、部屋にいたのは蓮だけだった。
あの日を境に、自分の中で何かが変わった。それ以来、誰とも寝ていない。ずっと仕事に追われてるせいだと思っていた。
だが今、ようやく気づいた。あの女は、記憶ではなく感情を残していった。断片的な夜の記憶よりも、深く、鮮やかに。
その後に現れた数々の女たち、どれも退屈だった。まるで、一度色を見たあとに、白黒映画を見せられているかのようだった。
(なぜ彼女なんだ……もっと優秀で、もっと魅力的で、もっと金のある女なんていくらでもいたのに……なぜ、よりによって彼女なんだ?)
永遠のように感じる時間が経った後、直哉はようやく振り返り、未だ立ち尽くしている蓮に視線を向けた。
「なぜ今まで黙っていた?まさか、妊娠したって言いに来たのか?」
蓮は首を横に振る。
静かに社長のデスクへ歩み寄り、パソコンに何かを打ち込んだ。
数回のクリックの後、画面を直哉の方へ向ける。
「社長……これ、彼女に関するニュースです。彼女、父親から……家族から追い出されたみたいです」
蓮の言葉は、雷のように直哉の胸を打った。
「なんだと?あのジジイが、なぜ彼女を——?」
「分かりません、社長。ですが……調べましょうか?」
直哉は一瞬、考えてから答えた。
「ああいう家族劇には興味ない」
ぶっきらぼうに言い、手をひらひらと振って蓮に退出を促す。
だが、蓮が部屋の出口に手をかけたそのとき、直哉は蓮を呼び戻した。
「はい、社長。何かご指示を?」
「彼女が俺の子を妊娠してるか、調べろ。もしそれを理由に擦り寄ってきたら……面倒だからな」
直哉は淡々と言った。まるで、こんな事態にはもう慣れているかのように。
蓮は苦笑を浮かべ、静かに頷いた。
「はい、社長……承知しました」