장 11: 第二部：序章 日常と、新たな不協和音
佐々木隼人事件から、季節が一つ巡った。 呪いの絵画『奈落の少女』は、如月しおりの穏やかな肖像画へと姿を変え、今は『時のかけら』の奥で静かに眠っている。あの事件は、マスコミによって「巨匠の経歴詐称スキャンダル」として面白おかしく消費された後、人々の記憶からゆっくりと薄れ始めていた。
僕、神木凌の日常もまた、平穏を取り戻していた。……いや、正確に言えば、僕の周りには常に感情の光が渦巻いているのだから、平穏とは少し違うのかもしれない。
「神木くん、練習のしすぎで店の骨董品を壊さないでよね」 カウンターの向こうで、月読さんがハーブティーのカップを傾けながら、呆れたように言う。
僕は手に持った古い懐中時計に意識を集中させていた。スキル『記憶の残滓』を発動させると、ただ映像を視るだけでなく、その持ち主の感情の“味”までをも感じ取れるようになっていた。この時計に残された《焦燥》は、まるで古くて苦いコーヒーのようだ。
「大丈夫ですよ。もう、力任せにこじ開けたりはしません」 僕はそう言って、回収した《焦 दीनता》を指先で光の球に変え、くるくると回して見せた。事件解決後、僕はシステムの膨大な感情ポイントを消費して、いくつかの基本スキルを強化していた。力のコントロールは、以前とは比べ物にならない。
相変わらず僕自身の心は凪いだままだが、それでも、他人の感情に触れることは、もはや苦痛ではなかった。それは、美しい絵画を鑑賞したり、複雑な音楽を聴いたりするのに似ていた。理解はできても、共感はしない。でも、その色彩や旋律の機微は、以前よりもずっと深く味わえるようになっていた。
そんな、ある日の午後。 店のドアベルが、チリン、と乾いた音を立てた。 入ってきたのは、一人の女性だった。高級そうなスーツを完璧に着こなし、にこやかな笑みを浮かべている。彼女の全身からは、太陽のように明るく、一点の曇りもない、強烈な《幸福》のオーラが放たれていた。
あまりにも、完璧すぎる幸福。 僕の魂が、警鐘を鳴らしていた。まるで、出来の良い偽札を見た時のような、微かな違和感。
「いらっしゃいませ」 月読さんが、表情一つ変えずに応対する。 「何か、お探しのものでも？」
「ええ」と女性は微笑んだ。「少し、ご相談したいことがありまして。こちらでは、曰く付きの品も扱ってくださると伺いましたので」 彼女がアタッシュケースから取り出したのは、一台のアンティーク・オルゴールだった。繊細な螺鈿細工が施された、美しい逸品だ。
しかし、僕には視えていた。そのオルゴールから放たれる光が、持ち主である彼女のオーラと全く同じ、人工的なまでに純粋な《幸福》の色をしていることを。モノが持ち主の感情を反映することはある。だが、ここまで完全に同一なのは、異常だ。
「これは、母の形見でして。最近、このオルゴールの音を聴くと、どうにも心が落ち着かなくて……」 女性はそう言って、オルゴールのゼンマイを巻いた。
カロン、コロン……と、澄んだ音色が店内に響き渡る。それは、誰もが知っている童謡『きらきら星』のメロディだった。
聴いているだけで、心が安らぐような美しい音色。 だが、その音色が僕の耳に届いた瞬間、僕の内なるシステムが激しく反応した！
【警告！ 警告！ 高密度の擬似感情（フェイク・エモーション）を検知！】 【これは自然発生した感情ではありません。何者かによって、意図的に“調律”された、感情の寄生体（エモーション・パラサイト）です！】
寄生体？ 調律？ 理解不能な単語が脳内に溢れる。同時に、オルゴールの音色が、僕の精神を直接揺さぶってきた。 ――幸せでしょう？ ――悩みなんて、何もないでしょう？ ――さあ、全部忘れて、この音に身を委ねなさい…… 甘い囁きが、僕の思考を鈍らせようとする。
「神木くん！」 月読さんの鋭い声が、僕の意識を引き戻した。見ると、彼女は眉間に深い皺を寄せ、オルゴールを睨みつけている。その顔には、今まで見たこともない、本気の《警戒》と《嫌悪》が浮かんでいた。
「……まさか、こんな極東の地で、まだ“彼ら”の残骸が燻っていたなんて」
彼女は僕に向き直り、静かに、しかしはっきりと言った。 「神木くん。これは、私たちが今まで相手にしてきた『呪い』とは、訳が違うわ」
「これは、人の心を喰らい、偽りの幸福を植え付ける、悪魔の調律」 「――『調律師（チューナー）』の仕業よ」
僕たちの前に現れた、新たな敵。 それは、死者の怨念よりも狡猾で、悪意に満ちた、生きた人間の仕掛ける“罠”だった。
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