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第01話:偽りの証明書
市役所の窓口で、詩織(しおり)は住民票の再発行を申請していた。
結婚5年目の夏。些細な手続きのはずだった。
「雪城(ゆきしろ)詩織さんですね」
職員が書類を確認しながら、困惑した表情を浮かべる。
「申し訳ございませんが、こちらの住民票に不備がございまして」
「不備、ですか?」
詩織の心臓が小さく跳ねた。何か嫌な予感がする。
「はい。印章が偽造されているようでして……それと」
職員は言いにくそうに口ごもった。
「それと?」
「法的には、雪城さんは『未婚』ということになっております」
世界が静止した。
「未婚って……でも私、5年前に結婚して」
「ご主人の影宮(かげみや)怜(れい)さんは確かに『既婚』なのですが、その配偶者は『夜条(やじょう)彩霞(さいか)』さんという方になっております」
夜条彩霞。
聞いたことのない名前だった。
震える手で受け取った書類には、確かに「未婚」の文字が印刷されていた。5年間信じてきた結婚生活が、一枚の紙切れによって否定される。
足元が崩れ落ちるような感覚に襲われながら、詩織は市役所を後にした。
自宅に向かう車の中で、頭の中は真っ白だった。偽造された印章。未婚の記載。夜条彩霞という女性の存在。
すべてが現実とは思えない。
家に着くと、玄関先から怜の声が聞こえてきた。誰かと話している。
「……詩織との件ですが、そろそろ法的な関係を整理された方がよろしいのでは」
顧問弁護士の声だった。
詩織は息を殺して聞き耳を立てた。
「いや、彩霞のキャリアを考えると、今の状況を維持したい。海外での活動に支障が出る」
怜の声は冷静で、まるで他人事のようだった。
「しかし、5年間もこの状態を続けるのは」
「詩織のことなら心配いらない。あいつは俺を深く愛しているし、俺のために雪城家とも絶縁した。もう後戻りできないんだ」
詩織の血が凍りついた。
「それに、詩音(しおん)のこともある。彩霞が産んでくれた娘だ。養子という形で詩織に受け入れさせているが」
詩音。
愛らしい6歳の女の子。詩織が心から愛し、実の娘のように大切にしてきた子供。
それが怜と、夜条彩霞という女性の実子だったのか。
膝が震えて、詩織はその場に崩れ落ちそうになった。
「奥様?」
音を聞きつけた怜が玄関に現れる。
「どうしたんだ、顔色が悪いぞ」
優しい声。心配そうな表情。
すべてが演技だったのだろうか。
「日射病かも……ちょっとふらついて」
詩織は膝の擦り傷を隠しながら答えた。
怜は慌てて詩織を支え、リビングのソファまで運んでくれる。冷たいタオルを持ってきて、額に当ててくれる。
その優しさが、今は残酷に感じられた。
「大丈夫か?病院に行こう」
「いえ、大丈夫です」
詩織は最後の望みをかけて口を開いた。
「そうそう、住民票を新しく取りに行かない?何か手続きで必要になるかもしれないし」
怜の手が一瞬止まった。
「そういう細かいことは、弁護士に任せよう」
目を合わせずに答える怜。
その瞬間、詩織の心の中で何かが音を立てて砕けた。
5年間の結婚生活。愛し合っていると信じていた日々。すべてが嘘だった。
詩織は静かに目を閉じた。もう何も信じることはできない。
この男は、最初から自分を騙すつもりだったのだ。