朧にけむる鶴山は、薄いベールに包まれ、かすんで見え隠れし、はるかな雲霞の中に遠くもあり近くもあり、つかず離れず。まるで青空の果てに、淡い墨の数筆がさっと引かれたようだった。
エイヴリルは、自分がどれだけ歩いたか覚えていなかった。ただ、西へ西へとひたすら進まねばならないことだけは知っていた。西という方角は天龍国では縁起が悪いとされるが、今のエイヴリルにとって、西は希望の象徴だった。そこに、弟を救える者がいるのだから。
エイヴリルの背中におぶさったクリオは、体の痛みのため、うつらうつらと眠っては目を覚ました。
目を覚ますたびに、彼は感じた。自分の下で、かよわい姉が必死に彼を背負って、前へ前へと進んでいるのだと。
その背中は狭く、彼女自身も背が高くはない。彼を背負っていても、クリオの足は時々地面にこすれていた。
しかし、そんな姉の姿が、クリオの心の中で、突然大きく、崇高なものに映った。
まったく、大病を癒えたばかりなのに、どうしてわざわざこんなところまで、自分のために医者を求めて来るんだ?
そう考えると、クリオは鼻の奥がツンとなった。
母さえも自分を見捨てたというのに、この姉だけは決して諦めなかった。飢え死にしそうな時でさえ、かゆ一碗を母に「弟にも分けて」と頼んでいたのだ。
そのことは、クリオもよく知っていた。痛いほど分かっていた。
彼はもう、泥んこ遊びばかりしていた小さな子供ではなかった。ひげ面の大男が、あの憎たらしい女の命令で、鞭を振るう姿を、今もはっきりと覚えている。
あの忌々しい女め!父を奪っただけでは足りず、自分にまでそんな仕打ちを!クリオは今、まだ生え替わっていない乳歯ででも、あの女を噛み殺したい気持ちでいっぱいだった。
痛みにさいなまれたのはどれくらいだっただろうか?ただ、ぼんやりと眠っては目を覚まし、思考を集中させるのが難しいことだけを覚えている。
よく、誰かが自分の耳元でガヤガヤ騒ぐ声が聞こえた。するとすぐに静かになる。その静けさの中では、いつも一組の手が優しく自分をいたわってくれた。そしてまた騒がしくなる…
完全に意識が戻った時、目を開けて最初に見たのは姉さんのエイヴリルだった。
優しさと微笑みをたたえた彼女の顔は、クリオの生涯忘れられない一瞬となった。
お姉ちゃん…なんて温かい響きなんだろう。今、クリオの心の中で、姉は最も大切な存在となり、永遠に守り続けたい人となった。
「お姉ちゃん…ゆっくりでいいよ。僕、大丈夫だから」クリオは、今なお山を登り続けるエイヴリルにそう言い、気遣うように彼女の額の汗を拭った。
エイヴリルの口元に、しとやかな微笑みがぱっと咲いた。清らかな桜の花を思い浮かべた。しかし、この美しい笑顔を、背中にぴったりくっついていたクリオは見ることができなかった。
「平気よ、まだ大丈夫だ」エイヴリルは上を見上げようとしなかった。あとどれほどの距離があるのか、知りたくなかったのだ。そんなことを考えれば、心が折れそうになる。ただ、足元の一歩一歩を確かに踏みしめればいい。この山は、登らねばならぬのだから。
その時、エイヴリルはクリオがまた体をぎゅっと丸めていることに気づいた。彼女は思わずじーんとした。自分の苦労が報われた気がした。
クリオは、少し前に目を覚ました時、気を利かせて、食料を入れた袋を自分の手に握っていた。まさに子供らしい発想だ。そうすれば姉の負担が減ると思ったのだろう。彼には、それがエイヴリルが持つのと重さは変わらないことに気づいていなかった。
「ゆっくり…ゆっくり行こうね…」クリオは怖かった。もし今、お姉ちゃんが倒れたら、自分はどうすればいいのだろう? 彼は、姉が自分のために倒れるのを望んでいなかった。姉には生きてほしい。たとえ自分が死んでも、姉さえ生きていれば、彼女が自分の分まで生きてくれるだろうと願った。
「うん」エイヴリルは相変わらず優しい口調でクリオに返事をした。うんざりすることなどなかった。彼女には、その言葉の端々ににじむ心遣いが感じられたからだ。なんて素晴らしいことだろう。たとえ環境が変わり、体さえ変わっても、家族の絆は変わらない。相変わらず純粋で、飾り気のないものなのだと。
鶴山は、その名の通り、とても高く、高く、雲の中に消え入るほどだった。
汗がぽたぽたと一歩一歩の石段に落ちた。エイヴリルの視界がぼやけ始めた。汗が彼女の幼さの残る顔を覆っていた。
エイヴリルは背中のクリオがぐっすりと眠りに落ちたのを感じた。今の彼女には、汗を拭う手さえまわらなかった。ただ、汗が石段に、自分の服に落ちるにまかせるしかなかった。
エイヴリルは力いっぱい目を細め、そしてまた奮起するように見開いた。そうしなければ、方角さえ見失ってしまう。
頭がぼんやりしてきた。その症状はまるで熱中症のようだった。ぐったりと横になりたい衝動に駆られた。しかし、もし彼女が倒れたら、クリオは地面にたたきつけられてしまう。
頭はますますぼうっとしている。目に見えるのは、真っ白な世界だけだった。
彼女は思いきって、自分の下唇をぐっと噛んだ。たちまち、青ざめていた唇にぱっと赤みがさした。唇もう噛み破られてしまった。
舌先にじわりと血の気が広がった。
エイヴリルはが立ち止まったとしても、頭は真っ白で、どう考えればいいのか全く分からなかった。
足取りはますますふらついた。目の前の道が、突然何本にも分裂して見えた。どちらへ進めばいいのか、まったく見分けがつかない。
心の中の揺るぎない執念がなければ、おそらく今ごろ彼女は道端に倒れていただろう。
ダメだ。絶対に今倒れてはいけない。絶対に。弟のためだ…弟のために…!
エイヴリルの頭は割れそうなほど痛んだ。目はとろんとし、視界は完全に雪景色のように白一色になった。彼女の目は半ば閉じかけていた。もうすぐ完全に閉じてしまいそうなのに、それでも必死に見開こうとした。そしてまた、誘惑に負けて閉じそうになる。
この繰り返しの中で、いつ自分が限界を迎え、倒れてしまうのか、彼女自身にも分からなかった。
しかし、たとえもう一歩でも、もう一瞬でも耐えられるなら…。エイヴリルはただ耐え続けようと思った。自分の持てる力のすべてを尽くして。倒れてはいけない。目的はまだ果たしていないのに!どうして倒れられようか?
弟を…弟を救わなければ! 必ず弟を救う!
エイヴリルの体がよろよろと揺れるにつれ、クリオも目を覚ました。そしてすぐに、震えている姉の体を感じ取った。
「お姉ちゃん…お姉ちゃん、どうしたの」クリオの声は震えていた。
エイヴリルは微笑みを浮かべた。頭はまだくらくらしていたが、それでもクリオの問いに答えようと努めた。
「クリオ…お姉ちゃんは…お姉ちゃんは…だ…い…じょ…う…ぶ…」エイヴリルは最後まで言葉を絞り出したが、その直後、彼女の体は右側へどさりと倒れこみ、闇へと沈んでいった。