夜が明ける頃、拳志たちは獣人の里の一角にある、ガルドの家で目を覚ました。
床には薄い獣皮が敷かれ、天井からは乾燥肉や香草が吊るされている。
獣の匂いと焚き火の煙が染みついた空間に、レインは少し居心地悪そうに身を丸めていた。
「……朝、か」
拳志がむくりと起き上がり、頭を軽く回す。
外では既に何人かの獣人たちが歩き始めていた。
扉を開けて外に出ると、空気が妙に重たいことに気づく。
朝の光は差しているのに、どこか沈んだ気配が里を包んでいた。
「なんや、ずいぶん静かやな……」
広場を見渡せば、子供たちの姿はどこにもない。
年寄りらしき姿も少なく、代わりに目立つのは、武器を手にした若い獣人たち。
槍、弓、ナイフ、拳。
誰もが表情を固くし、無言のまま巡回していた。
アリシアとレインも外に出てくる。
「……まるで、戦時下ね」
アリシアの呟きに、拳志は木の柱にもたれかかりながら応える。
「なんで誰も笑ってへんねん。」
そこへ、ガルドが現れた。
「気になるなら、来いよ」
拳志たちは、ガルドの案内で里の中心にある集会所へと向かった。
大きな岩をくり抜いたような重厚な建物の中には、静けさと重圧が漂っていた。
中に入りまず目に入ったのは、円形に並んだ獣皮の座布団。その中央に、年老いた獣人たちが静かに座していた。
白髪を逆立てた老獣人がひときわ目を引く。
裂けた耳の片方には装飾の輪があり、その眼差しはまるで岩のように動かない。
その彼らを囲うように、数名の若い獣人たちが立っていた。
腰に槍を構え、鋭い目で拳志たちをじっと見張っている。
一歩でも踏み間違えれば、即座に突かれるような緊張感が、空気をひりつかせていた。
拳志は肩をすくめながら、ガルドの背中に目をやった。
「ずいぶんと物騒な歓迎やな……」
ガルドは無言で軽く手を上げ、警戒する若獣人たちを制す。
老獣人が、ようやく口を開いた。
「人間を連れてくるとは……ガルド、お前も落ちぶれたな」
「落ちぶれたってなら、そっちだろ。里がこんな空気になってんのは、あんたらが何も動かねぇからだ」
「無闇に動けば、滅びを招く。慎重こそ、今の我々には必要なこと」
アリシアが、前へ出る。
ほんの少しだけ、肩が震えていた。しかし、その目に迷いはなかった。
「私は王国の者です。ですが、ここの状況を見過ごす気はありません」
その一言で、周囲の空気がぴりついた。
若い獣人たちが、手にした武器をわずかに握り直す。
「王国の者……だと……?」
長老が目を細める。
「ふざけるな!今さらどの面下げてここへ──」
「待てや」
拳志が前に出る。
「こいつは腐っとる王とは別もんや。せやから黙って話、聞いたってや」
ガルドがその様子を見ながら、口を開いた。
「長老。今のままじゃ、何も変わらねぇ。……だから、外のやつを知ってる奴が必要だ」
長老はしばらく拳志を見つめていたが──やがて、低く呟くように語り始めた。
「……ここ数日、我らの里は何者かの襲撃を受けている」
「それは……人間ですか?」
老獣人は、目を閉じたまま低く呟くように言った。
「正体は分からん。ただ、奴らの動きは、鍛えられた兵のそれだった。人間かどうかも怪しいほど、異様に統率されていた」
アリシアが眉を寄せる。
「……魔導兵か、あるいは何らかの強化を受けた部隊かも」
老獣人の声が、さらに重くなる。
「ここ数日で、二十を超える獣人が攫われた。子供、女、若い戦士……連れ去られた者に一貫性はない」
ガルドが、拳を握った。
「攫われた中には……かつて俺が兄貴と呼んでいた獣人戦士の娘がいる」
「……兄貴?」
レインが小さく反応する。
「昔、まだ子供だった頃だ。命を拾ってくれた、尊敬してた男だよ。そいつの血を引く子供が……黙ってられるわけねぇだろ」
拳志はゆっくりと拳を握りしめる。
(また弱いもんが狙われとるんか...昔から一番許せへん)
「……ふざけんなや」
低く、抑えた声だった。
けれどその目は、今にも爆発しそうな怒気を宿していた。
「そんなん、見過ごせるわけないやろ……」
アリシアがやや顔を伏せ、真剣な表情で言う。
アリシアが、険しい表情でぽつりと呟く。
「……王国の仕業じゃないと、信じたい。けど……これだけのことをやるには、王国規模の手助けがなきゃ無理ね」
レインが静かに言葉を継ぐ。
「そうですね……王国で過ごしてきた僕たちにも、まだ知らない闇があるのかもしれません」
そのとき、広場の端で何かを見つけた様子の獣人が、慌てて駆け寄ってくる。
「ガルドさん! これ……!」
彼の手には、黒い羽のような布切れが握られていた。
それは、明らかに獣人の里の者の装備とは異なる、光沢のある異質な材質だった。
「……さっき、巡回中に森の外れで拾った。明らかにこの里のもんじゃねぇ」
ガルドの声音が低くなる。
「……こいつは貴重な手掛かりだ」
彼は鋭い目で布切れを見つめ、静かに命じる。
「鼻の利く奴らを集めろ。今夜、森を探る」
「奴らは夜にしか動かねぇ。逆に言えば、夜なら近づけるはず……」
「待ってください!」
静かな会話を割って、レインが鋭い声で割り込んだ。
その表情はいつもの柔らかさではなく、真剣なものだった。
「今、戦士たちを出せば、里の守りが一気に手薄になります。今夜が狙い目だとしても、それは敵にとっても同じです」
周囲の獣人たちが顔を見合わせた。
レインは黒い布を手に取り、すっと魔力を指先に込める。
「この布、微弱ですが魔力反応があります。分析すれば、流れの方向を割り出せる。……これなら、追跡も可能です」
老獣人が目を細める。
「ほう……魔術師か?」
「はい。王立魔術学院、追跡術専攻です」
さらりと語ったその言葉に、アリシアが思わず吹き出しそうになった。
だがレインの口調は淡々と、冷静そのものだった。
「敵の正体も規模も不明ですが、奇襲で攫っていくような相手なら、正面戦力はそこまで大きくないはずです」
「前衛は拳志さんとガルドさんがいれば、突破可能です。僕とアリシアさんが後方支援に回ります」
「攫われた人々の所在も、僕の探査魔法で見つけ出せる可能性が高い」
「正面突破ではなく、最小戦力で静かに仕掛け、確実に奪還する。これが最適解です」
沈黙が落ちた。
アリシアが、ふっと小さく笑った。
「……さすが、うちの作戦参謀ね」
ガルドが口の端をわずかに上げる。
「気に食わねぇくらい有能だな。……任せる」
拳志も、腕を組みながらニッと笑った。
「お前、頭ええんやな。知っとったけど」
レインは一つ、深く息を吐くと静かに言った。
「攫われた人たちは……今も、助けを待っています。だから…やるしかないです」
老獣人が立ち上がる。
「……よかろう。今夜、少数精鋭で動く。人間の力、見せてもらおうか」
夜の帳が降り始める頃。
焚き火の前に集まった一行は、静かな気配の中で立ち上がっていた。
「俺は昔、兄貴に命を拾われた。……今度は、俺の番だ」
拳志は無言で歩み寄り、ガルドの肩に手を置いた。
どこか茶化すような笑みを浮かべながらも、目は真剣だ。
「……ほな、隣で暴れたるわ」
それは、冗談のように軽くて、戦友のように重たい言葉だった。
獣と人の、静かな共闘が、夜の森へ向けて動き出す。