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第1話:絶望の診断書
白い診察室の蛍光灯が、雫(しずく)の青白い顔を容赦なく照らしていた。
「申し訳ございませんが、右耳は完全失聴です。左耳も重度の難聴が進行しています」
医師の言葉が、まるで遠い世界から聞こえてくるようだった。雫は唇を噛みしめ、震える手で診断書を受け取る。
「治療法は……ありますか?」
「海外での最新人工内耳手術なら、可能性はあります。ただし」医師は申し訳なさそうに続けた。「費用が六百万円ほど必要になります。そして、手術のタイミングが重要で……今月末までに決断していただかないと」
六百万円。
雫の頭の中で、その数字だけが響き続けた。アルバイトを掛け持ちしても月収は十万円程度。どう計算しても、手の届かない金額だった。
病院を出ると、街角の電気店のテレビが目に入った。ニュース番組が流れている。
『月城(つきしろ)グループの御曹司、月城蓮(れん)氏の婚約が正式に発表されました。お相手は黒崎(くろさき)財閥の令嬢、綾香(あやか)さんです』
画面に映る蓮の姿に、雫の足が止まった。
五ヶ月ぶりに見る彼の顔は、以前と変わらず整っていた。隣に立つ美しい女性——黒崎綾香が、幸せそうに微笑んでいる。
胸が締め付けられるような痛みが走った。
――――
その夜、雫は高級ホテルでのアルバイトに向かった。サービス係として働く彼女に、マネージャーが声をかける。
「白雪(しらゆき)さん、VIPのお客様にサプライズの品をお届けしてもらえる? とても大切なお客様なんだ」
手渡されたのは、美しいベルベットのケースだった。
「これは……?」
「二億円相当のネックレスです。くれぐれも慎重に」
雫は慎重にケースを抱え、指定された個室へ向かった。廊下を歩いていると、部屋の中から聞き慣れた声が聞こえてきた。
「蓮、あなたの胸のタトゥー……やっぱり気になるの」
女性の声だった。雫の足が止まる。
「ああ、これか」低く響く男性の声。間違いなく蓮だった。「白雪雫? とっくに忘れた。今は心臓手術が終わったばかりだから、まだ療養中だ。結婚したら、すぐに消しに行くさ」
雫の手からケースが滑り落ちそうになった。慌てて抱き直す。
「そうよね。あんな女のことなんて」綾香の声が続いた。「金を惜しんで、あなたを置き去りにしていったんでしょう? 最低よ」
「ああ。俺が倒れた時、手術費を出し渋って逃げ出した。所詮、その程度の女だったということだ」
蓮の友人らしき男性の声も聞こえてきた。
「本当に冷酷な女だったな。お前があんなに愛していたのに」
雫は壁にもたれかかった。唇を噛みしめても、涙が止まらない。
違う。そうじゃない。
――――
あの日のことが、鮮明に蘇ってきた。
五ヶ月前、蓮が心臓発作で倒れた夜。病院の廊下で、彼の母親が雫に告げた言葉。
「私に息子を助けてほしいなら、別れの手紙を書いて彼の前から消えなさい。あなたのような貧しい娘では、息子の足手まといになるだけです」
手術費は既に用意されていた。母親が求めていたのは、雫の存在そのものの消去だった。
雫は震える手で別れの手紙を書いた。蓮への愛を偽り、金銭的な理由で別れを告げる嘘の言葉を。
そして病院を出た帰り道、蓮からもらった大切なペンダントを守ろうとして強盗に襲われた。頭部への激しい打撃が、聴力を奪っていった。
――――
個室のドアが開いた。
蓮が姿を現し、雫と目が合った瞬間、時が止まったような静寂が流れた。
彼の瞳に宿る冷たい光が、雫の心を凍らせる。
「まさか……」
蓮の唇が、かすかに動いた。