時田望は眉をひそめ、しばらくメッセージを見つめていたが、やがてスマホをしまい、リビングへ戻った。
ソファには、従順そうに座っている時田美咲の姿があった。
少し考えた末、望は隣の部屋を指さした。「そこの部屋を使って。食事とかは自分でなんとかして」
美咲は素直にうなずいた。「わかったわ」
そう言いながら、自分が喉も渇き、空腹でもあることに気づき、慣れた手つきでコップを取って水を注ごうとした。
望がすぐに止めた。「それ、母さんのコップだから」
美咲は少ししょんぼりし、客用のコップを取り、水を飲んだ。
「食べてないの?」美咲は冷蔵庫を開け、眉をひそめた。
中には料理がいくつも並んでいた。
「全部作ってあるのに…まだ食べてないのね。お母さんを待ってるの?」
望は小さくうなずいた。
「今は成長期なんだから、時間通りに食べなきゃダメよ。お母さんが食べなさいって言ってたなら、先に食べてもいいじゃない」
美咲は言いながら立ち上がり、「待ってて、新しいおかずを作るわ」と手際よく動いた。
冷蔵庫の料理を温めながら、二品の炒め物を作り始めた。
その手慣れた動きに、望はしばし黙って見とれた。まるで何年もこの家で暮らしているかのように自然で、背中の佇まいまで母と重なって見えた。
彼の目に、探るような光が宿った。美咲は台所で小言を言いながら皿を並べ、スープをよそって差し出した。
望は黙って受け取り、口にした。
二口、三口と食べ進めるうちに、動きが止まる。
懐かしい味だ。母さんの味と、まったく同じ。
「早く食べなさい」
美咲は菜箸で彼の皿におかずを一口のせた。
望は箸を置いた。「君、ママと親しいの? 前にもここに来たことある?」
「ええ、とっても親しいわ。これ以上はないくらいにね」一瞬言葉を詰まらせたが、美咲はすぐに目を輝かせた。「料理の味、懐かしかったでしょ?お母さんの味がした?」
彼女は自分の顔を指差す。「望、もう一度よく見て。何か、ひらめかない?」
しかし、望は下を向いたまま食事を続けた。「料理なんて、練習すれば誰でもできるよ。私が作っても母さんの味にはなる」
美咲は固まった。
「あとで母さんの服は脱いで」望が口を開いた。その声は淡々としているが、どこか居心地悪そうだった。
「……じゃあ、他の服を借りてもいい?」
「ダメ」
あまりに即答だった。
「荷物持ってきてないのよ」
「それが?」
冷たすぎる息子に、美咲は口を開きかけて閉じた。
数秒後、望はため息をつき、「……わかった。後で何か探してあげる」と小さく呟いた。
食後、望は倉庫から古い服の袋を持ってきた。若すぎるデザインで寄付予定だった服たちだ。
「二階には上がらないで。それと、家の物を勝手に触らないで」
「……わかったわ」
本当に、冷たい息子。
けれど――家に入れてもらえただけでも上出来だ。
少ししょんぼりした美咲だったが、すぐに気持ちを切り替えた。
服を抱えて部屋に入ると、仕事用の携帯を取り出し、望にメッセージを送る。自分が信頼できる「母の親しい知人」であり、幼いころから知っている人間だと曖昧に説明した。
望はその説明を受け入れたが、すぐに話題を変えた。
「母さん、どう考えてる? オーディションの締切、明後日だよ。明日が最後のチャンスだ」
「ああ、そうだったわね…」思わず美咲は呻いた。
続いてもう一通。
「母さん、ただ挑戦したいだけ。もし明日ダメでも、ちゃんと高校を卒業して大学に行く。もうこの話はしないから」
美咲は小さくため息をついた。「でも、あなたが明日成功するって、私は知ってるのよ…」
しばし沈黙のあと、メッセージを打った。「望、本当に参加したいの? 将来、どんな結果でも後悔しない覚悟はある?」
「うん。このチャンスを逃したら、一生後悔するかもしれない」
美咲の作品は、一度しか改編されない。
ドラマが作られれば映画は作られず、映画が作られればドラマは作られない。そしてどれだけ人気が出ても、リメイクされることはない。
つまり、『ダンスダイアリー』には木村努は一人だけしかいないということだ。
「一生後悔する......」
その言葉を見つめるうちに、美咲の目が潤んだ。
前の人生でも、彼はそう言っていた。そして結局、夢を叶える前に終わってしまった。
それを止めたのは、自分だった。
涙を飲み込み、美咲は決意した。
「わかったわ。参加していい。ただし条件があるの。下にいる女の子も一緒に連れて行って」
上の階から、驚きと喜びの声。
「まったく、素直なんだから……」
苦笑しながら、すぐに望から返信が来た。「うん! 参加できるなら何でも約束する!」
「ありがとう、母さん。愛してる!」
「母さんも愛してるわ」
美咲はベッドに倒れ込み、大きく息を吐いた。
これでいいのだ。彼に付き添って行こう。前世では彼女はずっと彼を止め、ずっと彼を守ろうとしていた。
彼の人生はまだまだ長いと思い込み、彼がもう少し大きくなって理解するようになれば、そのときにやらせてもいいと思っていた。二十歳でその人生が終わってしまうとは思わなかった。
今回は、彼女は止めない。
彼がしたいことをさせよう。
もしかしたら、ちょうど危険を避けられるかもしれない。
路上での事故に関しては、彼女が付き添い、決して彼に何も起こらないようにし、彼が水に対するトラウマを抱くことがないようにする!
「そう、これでいいの。望は成績もいいし、勉強だって自分でできるもの」
そう自分に言い聞かせ、美咲は次の問題に気づいた。
「でも、一緒に行くって…どうやって? 付き添いは禁止だし……まさか、私もオーディションに出るの?」
自分の作品の選考に自分が出る――笑えるほど非現実的だった。
けれど、彼を守るためなら仕方ない。
「身分証…どうしよう」
まさか、五十歳のまま出すわけにもいかない。
ポケットを探ると、
手帳・口紅・鍵・身分証――いつもの荷物が出てきた。
美咲は昔からバッグが嫌いで、大きなポケット付きの服ばかり着ていた。
今着ている服もお気に入りだった。望がプレゼントしてくれたもので、ポケットが深く、何でも入る。
七夕のたびに、彼はそんな服を選んで贈ってくれた。
身分証を取り出そうとしたとき――指が止まった。
「え? 身分証が二つ?」
元の身分証にぴったり重なるように、もう一枚のカードがあった。
手に取って見ると、そこには今の自分の写真。名前は「時田雫(ときた しずく)」。
誕生日は明後日、十八歳。望の一日後――一歳違い。
透明のカバーに入ったそのカードの裏には、一枚の紙が挟まっていた。転校証明書。
宛先は、望の学校。
美咲は思わず笑みをこぼした。
「完璧じゃない。……これで応募できるわ」