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장 8: 第八話 小菊の献身

 翌朝、蓮麻呂が目を覚ますと、いつものように小菊が正座して待っていた。しかし、今朝の彼女の表情には、微かな心配の色が浮かんでいる。

「おはようございます、若様」

「おはよう、小菊。今日も早いね」

「はい」

 小菊は少し躊躇ってから口を開いた。

「あの……若様、最近お疲れのご様子ですが、お体の調子はいかがですか?」

 蓮麻呂は軽く驚いた。確かに夜中の研究で睡眠時間は削られているが、それほど顔に出ているとは思わなかった。

「大丈夫だよ。少し本を読むのに夢中になってしまって」

「そうですか……」

 小菊は安堵の表情を見せたが、まだ何かを言いたげだった。

「実は、昨夜も庭で物音がしていたようで」

 また庭の話か。蓮麻呂は内心で焦ったが、小菊の様子には蓮次郎のような疑念は感じられなかった。純粋に心配しているだけのようだ。

「物音?危険なものかな?」

「いえ、そういうわけでは……」

 小菊は困ったような表情を見せた。

「なんと言いますか、不思議な音なのです。まるで何かの術でも使っているような」

 鋭い感性だった。蓮麻呂は小菊を見直した。侍女として長年屋敷に仕えているだけあって、霊的な現象に対する感度が高いのかもしれない。

「術の音?」

「はい。私の祖母が陰陽師の家で働いていたことがあって、その時の話をよく聞かされていたのです。昨夜の音は、それに似ていました」

 これは予想外の展開だった。小菊が陰陽術について知識を持っているとは思わなかった。

「祖母上は陰陽師のお屋敷に?」

「はい。とても有名な先生だったそうです。祖母からは色々な話を聞きました。術式の音や、霊力の感じ方なども」

 小菊の瞳に、懐かしそうな光が宿った。そして、蓮麻呂を見つめて続けた。

「若様も、もしかして夜中に修行をされているのではありませんか?」

 直球な質問に、蓮麻呂は困惑した。否定すべきか、それとも……。

「どうして、そう思うの?」

「最近、若様の雰囲気が少し変わられたような気がするのです」

 小菊は恥ずかしそうに俯いた。

「なんと言いますか、以前よりも……凛々しくなられたと言いますか」

 確かに、前世の記憶を取り戻してから、蓮麻呂の内面は大きく変化していた。それが外見にも現れているのかもしれない。

「小菊は……陰陽術について、どの程度知っているんだい?」

「そう詳しくはありませんが……基本的なことは祖母から教わりました。五行の理論や、簡単な術式の見分け方など」

 これは好都合だった。もし小菊が理解者になってくれるなら、研究を続ける上で心強い味方となる。

「実は……」

 蓮麻呂は決断した。

「確かに夜中に修行をしているんだ」

 小菊の瞳が輝いた。

「やはりそうでしたか!」

「でも、これは秘密にしてほしい。まだ人に話せるレベルではないから」

「もちろんです」

 小菊は嬉しそうに頷いた。

「若様のお役に立てることがあれば、何でもおっしゃってください」

 その純粋な忠誠心に、蓮麻呂は胸が熱くなった。この世界で初めて得た、本当の理解者かもしれない。

「ありがとう、小菊。君がいてくれて良かった」

「恐れ入ります」

 小菊の頬がほんのりと赤くなった。

「私は若様のお役に立てるよう、精一杯努めます」

 朝食の席では、いつものように兄たちとの微妙な空気が漂っていた。しかし、今朝の蓮麻呂は少し違っていた。小菊という理解者を得た安心感が、彼に新たな自信を与えていた。

「蓮麻呂、今日は何をする予定だ?」

 道長が尋ねた。

「読書と基礎修行を行うつもりです」

「うむ、それがいい。基礎をしっかりと固めることが大切だ」

 道長の言葉は相変わらず慰めるような調子だったが、蓮麻呂はもはや気にならなかった。

(いつか必ず、本当の実力を見せる時が来る)

 蓮次郎が探るような視線を向けてきたが、蓮麻呂は平然と受け流した。小菊という味方がいる限り、完全に孤立することはない。

 その日の午後、蓮麻呂は小菊と二人で庭を歩いていた。

「昨夜の修行は、どのようなものだったのですか?」

 小菊の質問に、蓮麻呂は少し考えてから答えた。

「火術の改良を試していたんだ。従来の方法では効率が悪いと思って」

「改良……ですか?」

「うん。現代の……いや、新しい理論を応用してみたんだ」

 危うく現代科学という言葉を口にするところだった。小菊には、あくまで独自の研究として説明する必要がある。

「すごいです」

 小菊は感心したように言った。

「若様は本当に頭がお良いのですね」

「そんなことはないよ。ただ、違う角度から考えてみただけ」

「でも、それこそが大切なことだと祖母が言っていました。常識にとらわれない発想が、新しい技術を生むのだと」

 小菊の言葉に、蓮麻呂は励まされた。確かに、現代科学の知識を陰陽術に応用するという発想は、この世界では非常識極まりないものだろう。

「小菊の祖母上は、賢い方だったんだね」

「はい」

 小菊は嬉しそうに微笑んだ。

「いつか若様にもお会いしていただきたかったです」

 夕暮れが近づく頃、小菊は蓮麻呂に向かって言った。

「若様、もし夜中の修行でお手伝いできることがあれば、遠慮なくお申し付けください」

「君も一緒に?」

「はい。見張りをしたり、道具の準備をしたり……私にできることはたくさんあります」

 その申し出に、蓮麻呂は深く感動した。地位も身分も違う自分のために、ここまで献身的になってくれる小菊。彼女のような存在がいることが、どれほど心強いか。

「ありがとう、小菊。今度、一緒にやってみよう」

「本当ですか?」小菊の表情が輝いた。「楽しみです」

 その夜、蓮麻呂は一人で研究を続けた。しかし、心はもう孤独ではなかった。明日からは小菊と一緒に、新たな陰陽術の開発に取り組める。

 窓の外を見ると、小菊の部屋の灯火がまだ点いていた。きっと彼女も、明日のことを考えて眠れないのだろう。

(この世界で、本当に信頼できる人を見つけた)

 蓮麻呂は小さく微笑みながら、術式の改良を続けた。小菊という味方を得たことで、彼の研究はより大胆に、より自由になっていくことだろう。


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