国際高校の生徒というのは、そもそも誰かに絡まれるような存在ではない。
あの学校に通うには、それなりの金がかかる。みんなが、どこかの「お坊ちゃん」だ。
俊介のように、学力で入り込んだほんの一握りの生徒だけが、たまにああして肩を押される。
航平は俊介を連れて、そのまま歩き出した。
さっき停まっていたタクシーは、まだ道端に待っている。
俊介を車の中に押し込みながら、航平は言った。
「どこ住んでんの?」
俊介はもう「大丈夫です」とか「自分で帰れます」とは言わなかった。
地下鉄の最終はもう間に合わないのが分かっていたからだ。
小さな声で住所を告げ、すぐに続けて言った。
「……先に、あなたを送ります。」
「そうだな、俺んとこ近いし。」
航平はそう言って、俊介の頬骨のあたりに薄く滲んだ血を見つけた。
ポケットを探ったが、ティッシュがない。
「紙ある?」
俊介はまだ少し呆けたようにしていたが、すぐに我に返って、鞄からティッシュを取り出し、航平に差し出した。
航平は受け取らず、指で俊介の顔を指した。
「お前、ここ。血出てる。」
俊介は思わず手で触れようとしたが、航平に止められた。
「手で触んな。紙で拭け。」
俊介は俯いたまま、紙でそっと拭いた。
そのときになって初めて、じんわりと痛みを感じた。
「誰かに絡まれても、怖がるな。あいつら、もうお前に手出せねぇよ。」
航平は続けた。
「もし何かあっても……まあ、お前俺には言わねぇだろうけどな。」
俊介は顔を上げて、少しだけ唇を結んだ。
「弦生に言えばいい。誰に言っても助けてもらえる。」
航平は、俊介が顔の傷に小さな紙を押し当てているのを見て、
滲む血が止まらないのに気づくと、その紙を取り上げて自分の手で俊介の眉の端に当てた。
「いつまでそんなに気が弱ぇんだよ。西村みたいに、もうちょい明るくしろ。」
俊介は顔を上げたが、さっき眼鏡を外したままで、目の前がぼんやりしている。
航平の姿は霞んで見えず、ただ彼の指先が自分の顔に触れているのだけがわかった。
紙が傷口に触れた瞬間、俊介は不思議と痛みを感じなかった。
ちくりと、少し痒いような、温かいような感覚だけが残った。
航平は車を降りる前に運転手に料金を渡し、
多めに札を置いて言った。
「残りは、こいつの分。」
俊介が慌てて声を上げる。
「い、いりません! もう下りてください……!」
航平は横を向いて笑い、俊介の額を指で軽く弾いた。
「じゃあ、八千円返せよ。」
俊介が「出せます」と言う前に、航平はもうドアを開けて出て行った。
――俊介は、西村には何でも話す。
けれど、この日のことだけは、一度も話したことがなかった。
西村は毎日のように、「兄ちゃん」「航平」「仁野」と彼らの名前を口にする。
彼らはいつも学校に来ては、西村に何かを届けてくれる。
西村は目が見えないから、俊介が代わりに受け取りに行くのが常だった。
仁野はいつも「メガネくん」と笑いながら呼ぶ。
航平は何も言わない。ただ、教室の戸を二度、軽く叩くだけだ。
俊介はその音を聞くと、自然に席を立って廊下に出る。
昼休みが終わる十分前、またあの二度のノックが響いた。
俊介が顔を上げると、航平が軽く顎を上げて合図した。
俊介はペンを置き、近づく。
航平は手にした二つのアイスクリームの箱を差し出した。
「お前らで食え。」
俊介は少し躊躇した。値段のことを考えると、気が引けた。
でも、欲しい気持ちもあった。
「……ありがとう。」
小さな声で言ったが、航平には届かなかったらしい。
航平はにやりと笑い、箱を少し引いて言った。
「“ありがとう航平”って言え。」
俊介は反論できず、ただまっすぐ見つめて、もう一度繰り返した。
「ありがとう、航平。」
その声を聞いて、航平はようやく手を離し、
「どういたしまして」と軽く言って帰っていった。
航平はいつもそうだった。
俊介が何かを受け取るたびに、“ありがとう”を言わせる。
そうしているうちに、俊介の口から出る「航平」という言葉は、だんだん自然になっていった。
閉ざされた小さな少年の心にも、少しずつ春が差し込む。
いつの間にか、心の奥に小さな場所ができていた。
思い出すたび、ただ「いいな」と思う場所。
何も望まない。ただ、あの感じが、あの人が――本当に、いい。
機械のように繰り返される日々の中で、
その感情だけが、確かに彼を生かしていた。
世界は急に優しくなった気がした。
そして俊介は思う。
――彼は、本当に、いい人だ。