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小野澪(おの みお)の明るい未来は、たった一杯のウイスキーで音を立てて崩れ去った。少なくとも、彼女の記憶にあるのは、その一杯だけだった。
父・小野拓海(おの たくみ)の最大の宿敵、藤原直哉(ふじわら なおや)。悪名高き実業界の大物であり、女遊びの激しい男。そんな相手と一夜を共にしただけで、自分の人生がめちゃくちゃになるとは、夢にも思っていなかった。
彼の名は、ほぼ毎週末のようにゴシップ欄を賑わせていた。いつも露出度の高い美女を腕に抱いて写真に収められていた。
そして今……
その危険なほど整った顔立ちの男が、自分の隣で静かに眠っている。シーツに半身を埋め、まるで何事もなかったかのように。
(ああ、最悪……どうして、よりによってこの男と……?)
そっとベッドを抜け出そうとした瞬間、体がびくりと震えた。
太ももの奥に走る、これまで感じたことのない痛み。
名も知らぬ痛みが、彼女を貫いた。
裸の体に視線を落とすと、昨夜の激しい痕跡が残っている。澪の背筋を冷たいものが走った。
彼を起こさぬように慎重にベッドを離れ、床に散らばった服をかき集めて急いで身に着ける。
だがバッグに手を伸ばした瞬間、突然の振動音が部屋に響いた。心臓が飛び出しそうになる。
澪は電話の画面を見ると、驚いた。妹の莉緒からの着信だった。
「姉さん、どこにいるの?部屋にいないけど!」
「まだここよ!」
澪は小声で答え、ベッドに眠る男を一瞥すると、主寝室を抜け出した。
「ここって……帝国ホテルってこと?」
「そうよ。後で説明するわ!」
「ちょっと、何が——」
妹の声を遮るように通話を切った。
ハイヒールを片手にドアを開けると、そこにはグレーのスーツ姿の男が立っていた。一瞬、幻を見たかと思ったが、現実だった。
彼女は数回まばたきし、この男が部屋に入ってきたのかどうか確信が持てなかったが、もちろん入って来ていた。
澪が話す前に、男性は冷静に尋ねた。
「彼は、まだ中に?」
「は、はい……」
澪の声はわずかに震えながら、彼が入るように合図してドアをそっと開けた。
だが男は動かない。
代わりに、穏やかに尋ねた。
「お送りしましょうか?」
「いいえ、結構です」
「本当に?」
澪はただ頷き、背を向けた。廊下を歩き、エレベーターの中に消えていく——
裸足で!
……
小野邸。
地下駐車場に車を停めると、そこにはすでに莉緒が腕を組んで立っていた。お気に入りのルームウェア姿で、まるで帰りの遅い娘を待ち構える母親のような表情だ。澪を見た瞬間、彼女は飛び上がりそうになった。
莉緒(りお)は待ちきれなかった。澪がまだ車を完全に停める前に、ドアを勢いよく開け放った。
「信じられない……姉さん、どこほっつき歩いてたの?今何時か知ってる?ていうか、今日が何日か分かってる?」
澪は軽く目を回しながらエンジンを切り、二日酔いの女王のように妹の脇をすり抜けた。
「元気そうで何よりね、莉緒」
そうぼやきながらエレベーターへ向かう。まだ頭の中はぐちゃぐちゃだ。
あのふざけた大晦日のパーティー。お金と権力を誇示する連中が集う馬鹿げた夜。飲みすぎた結果、気づけば父親の宿敵である藤原直哉と同じベッドにいた。
その名を思い出すだけで、顔が熱くなる。半裸の悪魔のような彼の姿が、脳裏に焼き付いて離れなかった。
とはいえ、莉緒にだけは死んでも話すつもりはない。
「ただ酔いすぎただけ。運転できなかったから、部屋を取って寝たのよ」
エレベーターが三階で止まると、澪は横目で妹を見る。
「で、お父さんはどこ?」
「もう大変よ、姉さん……」
莉緒は大げさに肩をすくめて目を見開く。わざとらしい恐怖の表情を浮かべた。
「何が大変なの?」澪は足を止め、完璧に整った眉を一つきゅっと上げて妹をにらむ。
「なに?まさか朝っぱらから家族ドラマでも始める気?」
莉緒はうめき声を上げ、手を空中に投げた。
「朝、お父さんとゴルフに行く予定だったこと、マジで忘れてたの?朝食に現れなかった時点でキレてたわよ!私なんか、バター塗りながら延々説教よ!」
「最高ね、今の私に一番必要な話題だわ」
澪は深いため息をつき、バッグから携帯を取り出し、父親に電話しようとした。だが莉緒が止めた。
「落ち着いて。言っといたから。生理痛で起き上がれないって。どういたしまして」
勝ち誇った笑みを浮かべながら、どや顔で言う。
澪は一瞬まばたきし、次の瞬間、妹の頬をつねった。
「嘘つき。でも助かったわ。今度ブランドバッグでも買ってあげる……できれば黙らせてくれるタイプで」
「取引成立」
莉緒は得意げに髪をかき上げた。
「じゃあ失礼。夜の汚れを洗い流して、脳が爆発する前に寝るわ」
澪は片手を振って寝室に消えた。
ドアを閉めた瞬間、昨夜の出来事を父が知ったら——その想像だけで膝が震えた。
「大丈夫!誰も言わなきゃ、バレない。落ち着いて、私!」
自分に言い聞かせながら、バスルームへ直行する。黒いドレスと、肌に張り付いたリネンをを脱いだ。
鏡に映る自分の姿を見ると、途端に頬が熱くなり、身体中に残る赤い痕が視界を満たした。
「本当に最悪よ、私!なんでよりによって藤原直哉なのよ?」
息を吐き出し、胸の奥に溜まった重みを吐き出そうとする。
だが、次の瞬間、別の不安が頭をよぎった。
「……彼、私と寝たこと覚えてる?いや、まさか。あの人も酔ってたはずよ。そう、絶対に覚えてない……覚えてるわけない!」
澪は必死に自分に言い聞かせた。
そして——藤原直哉との一夜を、記憶の奥底へ押し込めた。なかったことにするように。
誰にも知られなければ、それでいい——そう信じて。
しかし、澪の願いは彼女が望んだようには叶わなかった。
だが、現実は甘くなかった。
それから五週間、澪は普段通りの生活を続けていた。
小野グループの経営陣と共に、忙しい日々を送っていた。
だが、林田家との縁談が再び持ち上がった瞬間——彼女の人生は再び狂い始めた。
……
林田家との家族の夕食会の前夜。澪は震える手で妊娠検査薬を見つめていた。
ピンク色の線が、二本。
「私、妊娠してる……」