前世の記憶が戻ってから一年がたった。
オレは今、十歳になっている。
この一年、オレが一日たりとも欠かさなかったことがある。
それは、誰にも悟られぬよう、自室に引きこもって行う魔術の特訓だ。
大賢者が残した言葉、『力の抑制』。そのたった一つの教えを、オレは狂気的なまでに突き詰めてきた。
おかげで、かつては荒れ狂う奔流のようだった体内の魔力は、今や完全にオレの支配下にあった。
いかに魔力を抑制するか。いかに魔力を小さく、威力を少なく、そして何より、いかにその存在を目立たなくするか。
他人が聞けば、まるで意味が分からないだろう。普通の魔術師は、血の滲むような努力をして魔力を『増やす』のだから。
だが、オレはその真逆。有り余る魔力を、必死に『抑え込む』ことに、この数年を費やしてきた。
その成果を確認するため、オレは懐から『簡易魔力測定水晶』を取り出す。
そっと握りしめ、意識して魔力の放出を最小限に抑え込む。すると、水晶はぼんやりと光を灯した。
その色は、九歳の貴族の平均値である『青』よりも、さらに淡く、か細い。まるで才能の欠片もない者が発する、しらじらしい光――藍色だ。
学院の入学試験なら、間違いなく落第点だろうな。
「……よし」
だが、オレは誰にも聞こえない声で、満足げに呟いた。
これでいい。これがいいのだ。
この世界で生き残るためには、爪を隠し、牙を秘め、誰からも脅威とみなされない『無能』を演じきらなければならない。
だが、魔術だけでは足りない。
あらゆる不測の事態、あらゆる暗殺ルートに対応するため、オレはもう一つの訓練を日課としていた。
剣術だ。
魔術こそが至高とされるこの世界において、剣術は武骨で野蛮なものとして貴族からは侮られがちだ。
だが、関係ない。いつ、どんな状況で命を狙われるか分からない以上、己の身を守る術は一つでも多い方がいい。魔法が使えない状況で襲われたら、どうする? 不意打ちを食らったら?
剣術は、なにより戦闘センスを磨くことができる。敵との間合い、体捌き、そして何より『殺気』を肌で感じるための、最高の訓練だった。
魔術の特訓とは違い、剣術の稽古は屋敷の庭で堂々と行っている。
というのも、これには師匠がいるからだ。
オレは木剣を手に、庭で待つその人物に声をかけた。
「イオ」
そう。オレの剣の師匠は、将来オレを殺す可能性が最も高い暗殺者――メイドのイオ、その人だった。
彼女は暗殺者として一流ではあるが、剣術もなかなかの実力を隠し持っている。
ゆえに、その一流の身のこなしと体の使い方。そのすべてを間近で観察し、学び、そして対策を練る。これ以上に効率的な生存戦略があるだろうか。
「イオ、また剣の稽古を頼む」
オレの言葉に、呆れたようなため息をついて振り返るイオ。数年の時を経て、彼女も成長した。背はオレかとっくに抜かしたが。
「カイゼル様、またですか? 剣術なんかにうつつを抜かしていると、旦那様からお叱りを受けますよ」
「父上のことなど、好きに言わせておけばいい」
父――リンドベルク公爵は、オレを一流の魔術師に育て上げることしか頭にない。
魔術こそが貴族の教養であり、力の証だと信じて疑っていないのだ。そんな父にとって、オレが剣術にのめり込むのは、許しがたい蛮行なのだろう。
「いい加減にしてください。私まで旦那様から怒られてしまいますよ」
「そうか。……そんなに嫌だったか。それは、悪かったな」
オレは、素直に木剣を下ろした。
内心では、焦りと失望が渦巻いていた。一日でも長く、一秒でも多く、彼女の剣筋をこの目に焼き付けておきたい。いつか彼女がその刃がオレに向けられた時、万に一つでも対抗できるように。
だが、無理強いはできない。彼女の嫌がることを強制すれば、それだけ恨みは募り、破滅へのカウントダウンが早まるだけだ。
オレが本心からがっかりして肩を落とすと、それまで頑なだったイオの表情が、ふと揺らいだ。
「……もう、仕方がないですね。今回だけ、ですよ」
やれやれ、と首を振りながらも、彼女は腰に差した訓練用の剣を手に取った。
その言葉、前回も聞いた気がするな。
オレは内心でガッツポーズを決めながら、顔には出さず、再び木剣を構え直した。
「……感謝する」
こうして、オレと、将来オレを殺す暗殺者との、奇妙な稽古が始まった。
◇◆◇
カキン、と木剣がかち合う小気味よい音が、静かな庭に響き渡った。
先手を取ったのはオレだ。前世で培った知識と、この数年間の訓練で体に叩き込んだ剣の基礎。その全てを乗せた一撃を、イオの喉元めがけて最短距離で繰り出す。
だが、その切っ先が彼女に届くことはない。
「――遅い、です」
冷たい呟きと共に、イオの姿がふっと霞んだ。
まるで水面に映った月のように、そこにいるはずの彼女の存在が揺らぐ。目で追うのがやっとの、驚異的な速さ。常人ならざる身のこなしだ。
気づけば、イオはオレの懐に潜り込んでいた。
予備動作が一切ない。流れるような動きで体勢を崩され、視界がぐらりと傾く。まずい、と思った時にはもう遅い。首筋に、ひやりとした木剣の感触が押し当てられていた。
一瞬の攻防。その結末は、いつも同じだ。
「……まいった」
オレは天を仰ぎ、降参を告げた。これで何連敗になるのか、もう数えるのも馬鹿らしい。
来る日も来る日もイオに稽古を挑み続けているが、ただの一度として、本気になった彼女から一本取れたためしがない。
彼女の剣術は、正統なそれとはまったく異質だ。騎士たちが振るうような華やかさも、力強さもない。ただひたすらに、静かで、無駄がなく、相手の急所を的確に突くことだけに特化している。
これは、決闘の技術ではない。暗殺者のための、『殺しの技術』だ。
「カイゼル様。今の一撃、踏み込みが甘すぎます。あれでは、斬る前にご自身の体勢が崩れてしまいます」
「なるほど……」
オレは汗を拭うと、懐から小さな手帳と羽ペンを取り出し、イオから受けた指摘を几帳面に書き留めていく。
その様子を、物陰から見ていた他の使用人たちがひそひそと噂しているのが聞こえてきた。
「またカイゼル様が負けてるわ……」
「相手はただのメイドだというのに。リンドベルク家の次期当主も、形無しだな」
聞こえよがしな嘲笑。
女のメイドにさえ剣で負ける無能な貴族。それが、今のオレに対する屋敷内での評価だ。
だが、それでいい。こいつらには、目の前で師匠として振る舞うこの少女が、どれほど規格外の実力を持っているかなど分かりはしないのだから。
一通りの反省点を書き終えた後、ふと、イオが不思議そうな顔でこちらを見ていることに気づいた。
「……カイゼル様は、どうして私と剣術の稽古をなさりたいのですか?」
唐突な質問だった。オレは少し考えた後、正直に答える。
「自己の鍛錬のためだ。……もしかして、イオは嫌だったか? 嫌なら、今後はやめるが。オレは、できればお前と特訓がしたい」
それが、偽らざる本心だった。
彼女の動きを誰よりも知ることが、オレの生存確率を最も高めるのだから。
オレが真剣な眼差しでそう告げた、その瞬間だった。
「――っ!?」
イオの顔が、ぼん、と音を立てそうな勢いで真っ赤に染まった。
「か、カイゼル様は、そうやっていつも……! いつも、ごまかすのですからっ!」
そう叫ぶと、彼女は脱兎のごとく庭を駆け抜け、屋敷の中へと逃げていってしまった。
「…………え?」
一人、庭に残されたオレは、ただ呆然と立ち尽くす。
ごまかす? 何をだ? 今のは、寸分違わぬオレの本心だったはずだが……。
逃げられた!? なぜだ!?
まさか、彼女の地雷でも踏んでしまったか? まずいっ、オレはなにを間違えてしまったんだ!?