森の緑が薄くなり、土の匂いが乾いた。木立を抜けると、土壁と木の屋根が並ぶ小さな村。
柵の向こうで畑が揺れ、井戸のそばで女の人が桶を持ち上げている。
昼の陽がのぼり切る前の静けさだ。
「……静かな村だな」
「うん」
エリカが小さく頷く。
スミオは俺の肩でぷるぷる震え、陽に透けた。門の前に立つと、近くの男たちが警戒の目を向けてくる。
「入っていいですか」
声をかけると、男の一人が眉を寄せた。
泥に塗れた服、折れた木剣。
エリカの場違いなドレス。
「旅の者で。少し休ませて——」
言い終える前に、スミオが肩から「ぽん」と飛び降りた。
ころん、と着地して見張りの足元で「ぷるん」。柵の陰から男の子が顔を出す。
目が合うと、スミオはもう一回「ぷるん」。
男の子が笑った。空気が少しやわらぐ。
「……かわいいな、それ」
見張りの男が口元をゆるめる。エリカが会釈。無理のないやわらかい笑み。
俺は背筋を伸ばした。
「俺は……歓迎されないだろ」
独り言が漏れる。エリカが小声で返す。
「大丈夫だよ」
それだけ言って、俺の背を押した。
門がきしんで開く。
広場に入った瞬間、納屋から怒鳴り声。
「おい、閉めろ! また入ったぞ!」
人がばたばたと集まる。半開きの扉から小柄な影が飛び出した。
灰色の毛、長い尾。ネズミ型の魔物が3匹。
口にチーズを含み、小袋を引きずっている。
「子どもが! 奥に残ってる!」
泣きそうな声。見ると、奥に小さな女の子がいた。
膝を抱えてしゃがみ込み、目を真っ赤にしている。ネズミが横を通るたび、肩が跳ねた。
「俺が行く」
足が勝手に出た。折れた柄を構える。
掌にささくれが刺さる。エリカに任せれば一瞬で済む。けど——守るのは俺だ。
「ユウキ」
「わかってる」
俺が走るのと同時に、肩で「ぷるん」。
「スミオ?」
返事の代わりに地面へ着地。納屋の入口へ低く跳ぶ。
スミオが跳ねて、先頭のネズミの顔に「ぺとん」と張り付いた。
視界を塞がれたネズミが慌てて頭を振る。
次の瞬間、スミオが「ぽん」と弾けるように離れ、足がもつれたネズミが転んでチーズを落とした。
「俺もいく!」
女の子の前に膝をつき、体で庇う。
右から来た個体を折れ柄で横払い。
当たりは弱いが、進路は逸れる。
「大丈夫。ここにいて」
「……うん」
女の子が袖を握る。手が震えている。
ネズミが木片を口でくわえ、投げつけた。
スミオはそれを吸い込み、「ぽん」と吐き返す。木片は元のネズミの額に当たり、小さく跳ねた。
「ナイス、スミオ」
「ぷるっ」
別の個体が袋を引きずって逃げる。スミオが追いつき、体当たり。袋が転がる。
「外まで下がるぞ」
女の子を抱き上げ、しゃがんだまま出口へ。エリカが扉脇で手を構え、視線で全体を追う。
「ユウキ、子どもを先に」
「ああ」
外の女の人に女の子を渡す。女の子は俺の袖を離す前に、納屋の中へ小さく手を振った。スミオが「ぷるん」と返す。
最後の一匹が棚の上に逃げた。スミオは見上げ、ころりと落ちていたチーズを体に取り込む。
スミオがチーズを体に取り込み、頭上に掲げて走る。
ネズミが釣られて棚から飛び降りた。
スミオは狭い柱の間をすり抜け、わざと速度を落として後ろへ誘う。
距離が詰まったその瞬間——
「今だ」
俺が折れ柄で横から叩き足を止める。
スミオが放り投げたチーズに、ネズミは思わず食いついた。
その真上に、エリカの指先がひと振り。
光の輪が落ちた。
「眠って」
小さな光の輪が「ぱん」と開く。ネズミをすっぽり包む。焼かない。締めつけない。
輪の内側だけが少し重くなる。二、三歩走って、静かに倒れた。
「毒は使っていないわ。少し眠るだけ」
「もう一匹は?」
「藁の影」
スミオが「つん」。
立ち上がった瞬間、もう一つの光の輪。納屋が静かになった。
外から拍手。少しずつ大きくなる。
子どもたちが駆け寄り、入口に並ぶ。
さっきの女の子がスミオの前へ。
「ちいさいの、すごい!」
「ぷるるん!」
今日いちばんの声。スミオは二度跳ね、手のひらに「ぺとん」と頭を乗せた。子どもたちが笑う。
「助かった。本当に助かった。いい仲間を連れてるな」
門の見張りが俺の肩を軽く叩く。からかいではない、まっすぐな声。
「……ああ。自慢だ」
口が先に動いた。喉が熱い。——こんな言葉、もう聞けないと思ってた。胸の内で付け足して飲み込む。
「宿を用意する。今夜は泊まっていけ」
「助かります」
エリカが会釈。スミオは俺の肩に「ぴょん」と戻り、どや顔でぷにぷにしていた。
「スミオのおかげで、居場所がひとつできた」
エリカが撫でる。続けて、風に紛れるくらいの小さな声。
「……でも私には、まだないのかな……」
聞こえた。言葉が出ない。代わりにスミオの頭を人差し指でこつんと弾いた。
「今日のヒーロー。頼りにしてるぞ」
「ぷるっ」
エリカが少し笑い、空気が軽くなった。
空がゆっくりと赤く染まり、村に夜が近づいていた。
広場の端に長い机。パン、煮た豆、野菜のスープ。
子どもたちが交代でスミオを撫でていた。
昼間の女の子がパンを差し出す。
スミオは半分だけ取り込み、半分を押し返した。
「わけっこ、だってさ」
「ぷる」
笑いが起きる。
椅子に腰を下ろし、器を受け取る。
温かさが喉を通り、腹が静かになる。
「……悪くないな、こういう歓迎も」
「ええ。きっとまた見つかるよ。私たちの居場所」
「ぷるるん!」
スミオが胸を張る。偉そうでいい。
今日の主役だ。
やがて村の長が来て、今夜の宿を申し出てくれた。納屋横の空き部屋に藁を敷いてくれるという。
「世話になる」
「明日の朝、東の街道へ出るなら川沿いがいい。上の橋が一本、流されててな」
「助かる」
短いやり取り。
焚き火が石を照らし、影が伸び縮みする。
子どもたちは目をこすり、家へ帰る。
最後に女の子が来て、ぺこり。
「ありがとう、お兄ちゃん。お姉ちゃん。ちいさいの」
「どういたしまして」
エリカが微笑む。
夜風が少し冷たくなったころ、用意してもらった部屋に入る。
藁は乾いて柔らかい。窓から月。
スミオは胸の上で丸くなり、呼吸に合わせて揺れる。エリカは窓辺に座る。髪が白く光る。
「ユウキ」
「なんだ?」
「今日は、ありがとう」
「いや。走って、抱えて、ちょっと振っただけだ」
「それが大事だよ」
天井を見上げる。藁の匂い。遠くで犬が吠える。瞼が重い。
「明日、どうする?」
「川沿い。東の街道。いろんな街を見てまわる」
「そうだな」
「二人と、一匹で」
「……ああ」
目を閉じる前に、胸の内で短く言葉を置いた。——居場所が欲しい。なら作る。誰かに決められる前に、自分たちで。
「おやすみ」
「おやすみ」
「ぷるん」
村を包む夜は、やさしく穏やかだった。