美咲は健人の腰をぎゅっと抱きしめた。周囲には彼女が植えたチューリップが咲き、まるで一枚の絵のようだった。
詩織は皮肉な笑みを浮かべた。
彼女は、健人が美咲を優しく押しのけ、ポケットから落とした口紅を取り出して手渡すのを見ていた。
二人がまた話すと、美咲はつま先立ちして彼にキスしようとした。詩織はその光景に吐き気を覚え、窓から離れ、苦労しながらウォークインクローゼットへ歩いた。
クローゼットは広く、彼女の服はすべて一箇所にまとめられていた。ほとんどが素色のワンピースで、優しく上品な印象を与えていた。
健人は、彼女が素色の服を着るのを好んでいた。
実は、彼女は素色が好きではなかった。ただ、健人が「白いドレスが似合う」と言ったため、彼の好みに合わせて自分を着飾っていただけだった……
詩織は、自分がなんて馬鹿らしいのだろうと思った。
彼女はクローゼットの隠し引き出しを開けた。中には身分証明書、パスポート、銀行カード、二台の携帯電話、そしてパンパンに膨れた書類入れが入っていた。
表紙に書かれた「燕北大学」の四文字が、詩織の目に痛みを走らせた。
彼女はちらりと見ただけで、すぐに視線を逸らした。
その書類入れの中身は、送られることのなかったものであり、彼女のここ数年で最大の後悔だった……
詩織は一台の携帯を取り出し、ロックを解除して連絡先を開いた。
幸い、すべての連絡先はまだ残っていた。
彼女は親友の金城千秋(かねしろ ちあき)に電話をかけた。
呼び出し音が鳴ると、すぐに相手が電話に出た。
千秋の声は興奮で震えていた。
「詩織?詩織なの?」詩織が口を開く前に、千秋が一方的に話し始めた。「警告しておくわ。もしあなたが私の大切な詩織じゃなくて、健人っていうクソ男だったら、私の睡眠を邪魔したことを明日ツイッターで叩くからね!私のは八百万フォロワーの戦闘力をナメないでよ!」
詩織は笑い声を上げ、久しぶりの温かさを感じた。
「千秋、私よ」
電話の向こうが一瞬静かになった。しかし、詩織は千秋をよく知っていた。彼女は電話を少し遠ざけ、心の中でカウントダウンした。三、二、一……
「きゃあ!!!」千秋は悲鳴を上げた。「詩織、私の大切な人!やっと目を覚ましたのね。うぅ、会いたかった!病院?それとも家?場所を教えて、今すぐ飛んでいくわ!」
千秋は怒りを込めて続けた。「健人のクソ野郎!あなたが植物状態だった五年間、毎回会いに行こうとしたのに、彼の部下に阻止されたわ!あなたに贈った花すら届けられなかったのよ!」
健人は、意図的に彼女と周囲の人々とのつながりを断ち切ろうとしていたのだ……
詩織も、一刻も早く最愛の親友に会いたかった。しかし、今はまだその時ではなかった。
「千秋、今はまだ会えないの。お願いが二つあるんだけど」
「言って!何が必要?」千秋は歯ぎしりしながら言った。「健人みたいなクソ男を暗殺する人を雇うことだってできるわよ。あなたを五年も植物状態にしておくなんて!」
これぞ、真の親友……
詩織は無言で微笑み、本題に入った。
「千秋、健人の身近にいる秘書・美咲のことを調べてほしいの。できるだけ詳しく」
「わかったわ。あなたが植物状態だったここ数年、健人が公の場に出るときは、いつもその美咲がそばにいたの。毎回、山口夫人になったつもりで着飾って、私はずっと彼女が気に入らなかったのよ!」
詩織は黙り込んだ。
実は、美咲は最初、彼女の秘書だった。彼女が妊娠したとき、健人が美咲を雇い、彼女が疲れないように気を配っていたのだ。
今にして思えば、健人と美咲の関係は、そう単純なものではなかったのだろう……
「詩織、二つ目は?」と千秋が尋ねた。
詩織は心を落ち着けた。「明日、別荘に庭師を何人か呼んでほしいの。前庭のチューリップを全部掘り起こして、私の一番好きな……」
「黄色いバラ!」千秋が即答した。
詩織は少し驚いた。「どうしてそれを知ってるの?」
彼女は幼い頃から黄色いバラが好きだったが、それを知る人はほとんどいなかった。後に健人がチューリップを好むことを知ってからは、もう口にすることさえなくなった……千秋は大学の寮のルームメイトだったのに、
どうして彼女が知っているのだろう?
千秋はぶつぶつと言った。「彼の言ったことは本当だったのね。あなたの一番好きな花は、本当に黄色いバラなんだ」
「彼って誰?」詩織は問いただした。
しかし、千秋の答えは、詩織を大いに驚かせるものだった。
「徹よ。前に彼が教えてくれたの」
詩織はショックで、携帯を落としそうになった。
「徹」という名前は、彼女にとってあまりにも馴染み深いものだった。
さらに、あの過度に美しく、少し邪気を帯びた男の顔は、彼女の心に消えない烙印を押していた……
徹と最後に会ったのは、七年前の空港だった。
健人からの電話を受け、搭乗直前に躊躇なく引き返したとき、彼女を引き止めたのは、徹だけだった。
彼は彼女の前に立ち、その長身で光を遮った。異常なほど美しい顔には窓外の夕日が影を落とし、黒い瞳は人を惑わせつつ、さらに冷たく鋭く見えた。
徹という人は、実は冷淡で気ままで、常に第三者のような無関心さを目に宿していた。それでも、詩織は彼が感情を失う瞬間を見たことがなかった。
しかし、彼女は覚えていた。あの日、徹の眼差しは、極めて冷たかった。
彼の氷のような瞳の奥に、彼女は自分の姿をはっきりと映しているのを見た。
彼女は、徹が自分に残した最後の言葉を覚えていた。
「詩織、それだけの価値があるのか?」
彼は彼女を見下ろし、その美しい薄い唇は鋭い曲線を描いていた。
そのとき、彼女は徹に答えなかった。代わりに、炎に飛び込む蛾のような決意を胸に、彼のそばを通り過ぎ、振り返ることなく立ち去った……
しかし、今の彼女なら、答えることができる。
詩織は鏡の中の青白く痩せた自分を見つめ、心の中で静かに答えた。「価値はなかった。でも、徹……私が犯した過ちは、この手で必ず片付ける」