ティオリルは前のめりに身を投げ、雪上へ腹ばいになると、狂ったように小道の縁まで這い寄った。身を乗り出し、裂け谷を覗き込む。――何も、見えない。舞い落ちる雪が白い渦となって視界を呑み、すべてを隠している。
「アリラ!」
叫びは風に攫われ、果てしなく反響して遠ざかっていく。
「アリラ! 返事をしてくれ! 頼む――!」
応じるものは、沈黙だけだった。喉が締め上げられ、胸が痛む。――彼女は……死んだ? いや、そんなはずはない、ありえない! 圧倒的な恐怖に呑まれながら、ティオリルは自分に言い聞かせる。彼女が死ぬものか。少なくとも、“彼女は彼の側で死ぬはずがない”。彼女が半エルフなのは確かだ。だが、それこそが父の言葉どおりの“証”だった。彼女は生きる運命にある。彼女は、セレナと竜たちに並び立つ大軍を率いるべき者――こうなることは星読みにも視られていたではないか。彼女なしに、ヴァルカーンの“ルトリス”を呼び起こすことなどできはしない。――ここで終わるはずがない!
喉の奥から痛みを裂く悲鳴が漏れ、ティオリルは膝から崩れ落ちた。守れなかった。熱い涙は頬を伝うそばから凍りつき、刺のように肌に残る。彼は悟る――父に、民に、世界に、宿命そのものに――そして誰よりアリラに、自分は致命的な落伍を犯した。彼女を救えなかった。しかも彼は――まだ何も伝えていない。見たものも、父の言葉も、星読みの告げた未来も。彼女が決して夢想しないような未来を。――自分の想いでさえ、口にしていない。
変身の才を持つ魔導士の娘である半血と、純血のエルフの王子。そんな結びつきが狂気だということくらい、とうにわかっている。この国のエルフは決して容さないだろう。――それでも彼女は、彼が触れられないと信じていた心の最深へと届いてしまった。父はいつも言った。戦の怨嗟から生まれた半血であっても、“彼女はおまえを愛し、おまえも彼女を愛する”と。信じたいと思ったことは一度もなかった。だが今、誰のことか――はっきりとわかってしまった。
泣き尽くしたあとの心も魂も、周囲の氷と同じ冷たさに沈む。空っぽだ。癒やしようがない。埋められるはずもない。世界そのものが止まったかのように感じられても、痛みだけは消えずに残り続ける。その痛みに囚われたまま、彼は気づかなかった。雪庇の下から、小さな雪豹が身を現していたことにも。遥か空で雪鷲が上げた甲高い鳴き声にも。風がいくぶん収まり、唸りが柔らいでいることにも。あるのはただ、痛みだけ。――そして彼は、初めて“アリラの痛み”をほんとうに理解した。彼女は独りだった。今、彼も独りだ。
空ろな目で顔を上げると、雪と同じ色の毛皮をまとう小さな狼が、そっと細い道へ上がってきていた。氷に閉じ込められた魂を映すような、眩い青の瞳――それが彼の胸奥を震わせる。狼は近づき、ティオリルは見つめ返す。
「その瞳……」掠れた声が漏れる。「彼女と、同じだ」
凍えて動かぬ彼の指先へ、狼はそっと額を押し当ててきた。
「わかるのか……小さな子」ティオリルは息を詰める。「彼女の痛みが、君にはわかるのか? 君は彼女の故郷の獣だ。彼女は“氷のエルフ”の姫……だが、もうそこにはいない。ああ、やっと――やっとわかった気がする」
狼は一度だけ彼を見上げると、城の巨大な扉の前まで数歩戻り、凍りついた木扉を爪でかいた。ティオリルは慎重に立ち上がり、扉に歩み寄って手を触れる。――“墓標”を開ける必要など、どこにある。
狼はもう一度彼の脇をすり抜け、小さな空き地へ出ると、輪を描くようにくるりと回ってから腰を落ち着け、まっすぐに彼の目を見る。次の瞬間、驚くべきことが起きた。狼の雪白の毛がすっと退き、よく知る金の髪があらわになる。身体の形が変じ、骨と筋が再構成され――気づけば狼の姿は消えていた。その場所に、膝をつくアリラがいる。
足がもつれ、つんのめりながらもティオリルは駆け寄った。倒れ込むように彼女を抱きしめ、髪へ顔を埋める。確かな体温。馴染み深い香り。――彼女だ。紛れもなく。
「……ティオリル……」押し殺した声が、抱擁にくぐもる。彼女は明らかに、彼の反応を恐れている。「あなたは、私を嫌うと思ってた……。父と同じ、“シェイプシフター(姿変え)”だから」
「生きていてくれた」彼は身を引き、凍える頬を両手で包む。「それだけで、十分だ」
二人は全身の力を振り絞って、鉄帯の巻かれた城門を押した。軋みながら、辛うじて人ひとり通れる隙間が空く。中へ滑り込むと、ティオリルは掌に光球を呼び、ふたりの頭上に浮かべた。
城は巨大で、そして完全な闇に沈んでいた。本来ならば陰を払うはずの燭台は床に倒れ、蜘蛛の巣に覆われ、無残に折れている。光の届く範囲の奥を見やると、古いタペストリーは大きく裂かれ、壁面には焼け焦げの忌まわしい痕が走っていた。
「ここで……何があったの」破壊された美の残滓に打たれ、アリラは怯えを帯びて囁く。
「ドライケンだ」ティオリルは重く答える。「十年前、やつらはこの地方へ侵攻した。お前の父君が倒れる前に、ここも蹂躙されたのだろう。ヴァルカーン評議会も王家も、とっくに姿を消した。残っているのは、この空ろな殻だけ――偉大な国を偲ばせる、空洞だ。地上は“洗練された無秩序”で満ちている」
アリラはそばのタペストリーにそっと手を当てた。「……いつか必ず、秩序が戻るといい」
ティオリルは舌を噛んだ。彼女の胸元の宝――それこそがヴァルカーンの“宝玉”だと、今ならはっきりわかる。それを戴く彼女は、すなわちヴァルカーンの君。少なくとも“継承者”だ。氷に抱かれたこの屋形を愛した“偉大なる魔導士ガーウルフ”の血。――彼女は気づいているのか。あの水晶を持つ意味の、ほんとうの重さに。
「どうしたの、ティオリル?」
彼は壁を検めるふりをして視線を逸らし、「いや……なんでもない」と苦く笑う。「この宮が、手放してくれない古い記憶ってやつだ」
アリラは広間をゆっくり歩きはじめる。足音が静寂に冴え、柱に凭れたティオリルの前で、彼女は子どものようにくるりと回った。笑みが漏れる。――彼の目には、彼女の装いが長く優美なエルフの礼装へと変わって見え、黒髪で鋭い耳を持ち、蒼い瞳を輝かせた少年が駆け寄ってゆく幻が重なる。彼女は歌い、笑い、そして――まっすぐに彼のもとへ。「ティオリル」囁く声は、甘く、愛おしい。
「……ティオリル?」現実の声が幻を破り、彼は我に返った。彼女が不思議そうに見つめている。「本当に大丈夫?」
彼はしばらく彼女を見つめ、それから頷いた。現実のアリラは粗末な旅装に、背には外套。「少し、疲れてるだけだ」
「部屋を見つけて休みましょうか」アリラは周囲を見回す。
「そうしよう」彼は顔を擦り、「この城に“ルトリス”の手掛かりも残っているかもしれない」と付け加えた。
ティオリルが廊下を先導し、埃を被った扉の一つを指す。「この部屋を使え。俺は隣にいる。何かあれば呼べ」
「わかったわ」アリラがノブへ手を伸ばしたとき、彼は慌てて呼び止めた。
「な、なぁアリラ。……君は、自分の両親について、どこまで知っている?」
「母はハラウェンのエルフ。父は――“高いところ”と繋がりのある人だった。……それだけ」
「その……水晶は、どうやって?」
アリラは思わず胸元を押さえる。衣の下のペンダントを隠すように。「母が私に……くれたの。“走れ”って言って」
彼女のこわばりに気づき、ティオリルは静かに頷いた。「わかった。今は、休め。――明日は長い日になる」
隣室へ入っていく彼の背を見送りながら、アリラは考える。彼は何を見ているのだろう。あの、唐突な抱擁――どうして、あんなに取り乱していたの? ……ただの疲れ? きっと、そう。
* * *
「……駄目だ」翌日、ティオリルは最後の古書を床へ投げ出し、呻いた。「手掛かりが、ひとつもない」
アリラは大きく息を吐き、凍てついた中庭を見やる。丸一日探し回って、収穫はゼロだった。
彼女は柱にもたれ、胸の宝玉をいじる。掌に載せると、相変わらず冴え冴えと光っている。
「収穫って、この中庭の“ふざけた岩”が一つだけ?」皮肉を交えて言う。
「どうやら、そうらしいな」ティオリルも乾いた口調で返す。「試しに怒鳴ってみるか? 何か教えてくれるかも」
「まあ、名案!」アリラは大げさに指を立て、「“魔法の石像さん、わたしに答えをお教えなさーい!”」
「はは!」ティオリルは吹き出す。「本当に、君はおかしいやつだ」
アリラは宝玉を見下ろして微笑む。が、すぐに表情は翳った。「――本当に、見つけたいの。時間は無駄にできない。……この水晶、役に立つはずよね?」
ティオリルはペンダントを凝視する。――明らかに、光が強まっている。「アリラ……待て。いま、明るく……?」
アリラが視線を落とした瞬間、宝玉は爆ぜるように輝きを増し、二人は思わず目を覆った。光はやがて“玉”となって宝玉から離れ、空へ浮かび上がる。次の刹那、アリラの掌のペンダントはひやりと冷たく戻り、光は失われていた。
光球は一息に中庭を駆け、中央の巨石へ激突する。光は石に吸い込まれ、細かな亀裂を走らせながら、川の流れのようにひび割れの奥へと広がっていく。やがてその光は石の内へ沈み、消えた。
「な、なんだ今のは……」ティオリルは巨石を見据え、言葉を失う。
「――やっぱり! 最初から気づくべきだった!」アリラは叫び、階段を駆け下りる。驚くティオリルを追い越し、中庭の石へ一直線に走った。彼も慌ててその背を追う。
巨石の手前で彼女は速度を落とし、そっと掌を当てる。さきほど石の中を走ったものと同じ、低い唸りが返り、熱を宿している。掌を滑らせると、そこに“刻印”があった。間違いない――三日月の形だ。アリラは慎重に首から水晶を外し、刻みに差し込む。そして一歩、二歩と下がった。
「――“ルトリス”! 主に従え! 石の眠りから覚めよ!」
彼女がさらに退くのと同時に、刻印の周囲から石がひび割れ、蜘蛛の巣のように亀裂を広げていく。足元の大地が震え始めた。砕けた石は凍てつくように透明度を増し――割れ目の奥、深いところで“眼”が開いた。雪よりも白く光る核を宿した巨大な瞳が、彼女を見返している。
次の瞬間、氷は粉々に砕け、空中に舞い散った。そこに立っていたのは、竜に似て竜ならぬ巨大な獣。氷で覆われた鉤爪が地を穿ち、鱗は青というより灰に近い。鼻先から吐く息は白く凍り、周囲の空気さえ冷やしていく。――“ルトリス”だ。
アリラもティオリルも、老いたその眼を仰ぎ見た。アリラは視線を逸らさず、ティオリルは恐れに喉を鳴らす。その気配を読み取り、ルトリスはアリラを射抜くように見つめた。
(――おまえが、我を醒ました)響きは彼女の脳裏に直接落ちた。
「ええ」アリラははっきりと声に出す。「私があなたを呼び覚ました。この地の“水晶の三日月”は、私の手にある。あなたの力が必要」
(――大いなる危機が、近づいている)
「わかってる。だから来た。――私たちすべてを脅かす国、“ドライケン”と戦うために」
(それは、ヴァルカーン評議会の意志か)
アリラは一瞬だけ目を伏せた。「ヴァルカーン評議会は――もういない」
(おまえはガーウルフの娘。ゆえに、ヴァルカーンには“評議”が存する)
電光のように理解が落ちる。昨夜のティオリルの問い。彼の“目的”への執着。――すべてが線で繋がる。宝玉は自分の手にある。評議会は“わたし”。ヴァルカーンは――“わたし”なのだ。
アリラは力強く微笑み、巨獣を見上げる。「ならば、評議の意志はここにある。――私が誓う」
(よい。必要とあらば、いつでも我が力を呼べ。“ヴァルカーンの継承者”なる我が主よ。――今は再び眠ろう)
ルトリスの全身が眩い光に包まれ、その光は凝縮して小さな珠となる。珠はゆっくりと漂い、やがてアリラのペンダントへ吸い戻った。目覚めの巨影は消え、代わりに中庭一帯が淡い魔氷の膜に覆われていく。
アリラとティオリルは、ただその場に立ち尽くしていた。凍てつく静謐の中、寄り添う二つの影だけが、白い息をひとつ、またひとつと吐いていた。