第4話:偽りの朝食と妊娠の兆候
朝の陽光がダイニングに差し込む中、葵は静かに椅子に座っていた。目を閉じ、盲目の妻を演じながら、テーブルを囲む三人の様子を観察する。
零司は新聞を読むふりをしながら、時折依恋に視線を送っていた。蒼は制服に着替え、いつものように朝食を摂っている。そして依恋は――家政婦の制服を身に纏い、まるで何事もなかったかのように給仕をしていた。
昨夜、葵のベッドサイドで繰り広げられた背徳の記憶が脳裏をよぎる。だが表情には一切出さない。
「おはようございます、奥様」
依恋の声は丁寧だった。だがその目には、昨夜の勝利者としての余裕が宿っている。
「おはよう」
葵は微笑んだ。完璧な、何も知らない妻の笑顔で。
その時だった。
「うっ――」
依恋が突然口を押さえ、洗面所へ駆け込んでいく。嘔吐する音が響いた。
零司と蒼の箸が止まった。二人の間に緊張が走る。
「どうしたの?」
葵が首をかしげると、零司は慌てたように答えた。
「家政婦が、急に吐いちゃって」
そして立ち上がり、洗面所の方へ向かいながら声を荒げた。
「おい!体調管理もできないのか!奥様に迷惑をかけるな!」
わざとらしい怒声。だが葵には、依恋が洗面所から出てきた瞬間の表情が見えていた。
零司に「家政婦」と呼ばれた時、依恋の目に一瞬よぎった嫉妬と悔しさ。唇を噛みしめ、拳を握りしめる仕草。
葵は内心で冷笑した。愛人でありながら、妻の前では家政婦として扱われる屈辱。それでも零司の子を宿した女は、この屈辱に耐えるしかないのだ。
「申し訳ございません」
依恋は頭を下げた。だがその声は震えていた。
朝食が終わり、零司と蒼が別室へ移動する。葵は耳を澄ませた。
「やったー」
蒼の小さな歓声が漏れ聞こえてきた。
葵の心臓が激しく跳ねた。あの嘔吐は、つわりだったのだ。そして蒼の反応は――依恋の妊娠が、この父子にとって「喜ばしい事実」であることを物語っていた。
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「葵、今日の診察だが」
零司が戻ってきて、葵の肩に手を置いた。
「蒼の幼稚園で保護者会があるんだ。付き添えなくて申し訳ない」
嘘だった。葵にはわかっていた。
「大丈夫よ。一人で行けるから」
「本当にすまない」
零司の声には、罪悪感のかけらもなかった。
葵は微笑んだ。そして心の奥で、計画を練り始めた。
零司たちが出かけた後、葵は家政婦たちを別棟へ追いやった。そしてタクシーを呼ぶ。
「朽木(くちき)病院の近くまでお願いします」
だが実際の目的地は、病院ではなかった。
タクシーの中から、葵は零司の車を尾行した。案の定、彼らは朽木病院とは反対方向へ向かっている。
車が止まったのは、小さな産婦人科の前だった。
葵の予想は的中していた。
零司、蒼、そして依恋が病院に入っていく。三人の表情は明るく、まるで幸せな家族のようだった。
葵は車内で待った。胸の奥で、何かが激しく燃え上がっている。
一時間後、三人が病院から出てきた。
「やったー!依恋おばさんが、僕に妹をくれるんだって」
蒼の無邪気な声が、静寂を破った。
零司は依恋のお腹を宝物を扱うかのように撫で、そして言った。
「依恋、君は最高だ」
その瞬間、葵の世界が止まった。
――あの日、彼女が妊娠を告げた時、零司は同じように、激しく彼女を抱き締め、そっと離れ、こう言ったのだ。
「葵、君は最高だ」
全く同じ言葉。全く同じ口調。
葵の頬を、涙が伝った。
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その夜、零司たちが依恋のためのベビー用品をオークションで落札している頃、葵は病院の霊安室にいた。
「遺体の準備は完了したわ」
美緒の声が、冷たい空気に響く。
「整形手術で、あなたそっくりにする予定だけど――」
「いえ」
葵は首を振った。
「整形は必要ない。ただの肉塊を、あの父子に残してやりましょう」
美緒が息を呑んだ。
「葵……」
「それが、彼らにとって一生逃れられない悪夢になるから」
葵の声は、氷のように冷たかった。
霊安室の奥で、白いシーツに覆われた遺体が静かに横たわっている。
葵の身代わりとなる、名もなき女性の亡骸。
「いつ実行するの?」
美緒の問いに、葵は振り返った。その瞳には、もはや迷いはなかった。
「もうすぐよ。あの女の妊娠が安定期に入る前に――」