二時間後。
ヴィアは疲れ果てたようにソファへ身を沈め、かすかに震える声を漏らしていた。
清らかで神聖なはずのその美しい顔は、上気した頬の色によりいっそう艶めいて見える。
金の瞳には微かな倦怠の色が差し、まるで堕ちた聖女のような、抗いがたい魅力を放っていた。
「うん、リラックス効果は抜群だな」
片付けを終えたウェイはそばに立ち、自分の“作品”を満足そうに眺めていた。
これで、今日家に帰ってきたときのあの高圧的な態度は帳消しだ。
ふふん――まったく、完全に崩れ落ちるまで本性を見せないなんて。
まったくこの女、時々本当に手に負えない。
「死ね……」
顔を真っ赤にしたヴィアはソファに身を丸め、震える声で彼を睨みつけた。
冷たく言い放とうとしたはずなのに、その声には、普段なら決して滲ませない艶が混じっていた。
本来、こんなことに興味などない。
ただ、最初に結婚したときの約束だから、夫婦としての営みをこなしているだけ――。
それなのに、こいつはいつも、私が恥ずかしい姿を見せるまで絶対に止めようとしない。
これのどこが「夫婦生活」なのよ?どう見ても、ただの意図的な嫌がらせじゃない――?
「でも、さっきはどう見ても楽しそうだったけどな」
ウェイは頭をかきながら、ぼそりとつぶやいた。
「助けを求めたときなんか、特に――」
言い終える前に、ヴィアが怒りのまま口を開き、勢いよく噛みついてきた。
すぐそばにあったウェイの手首が標的となり、彼は見事に噛みつかれた。
「いたたたっ……!そんなに強く噛むなって、痛い!」
そう言いながらも、こんな程度の攻撃でウェイがどうにかなるはずもない。
彼は抵抗することなく、彼女が恥ずかしさを噛みつきで発散するままにしておいた。
まだ熱の残る、柔らかく紅潮した頬をそっと撫でながら。
ウェイは拗ねたように唇を尖らせるヴィアをそっと抱き寄せ、優しくなだめるように問いかけた。
「それで……俺の美しいヴィアは、今回はどのくらい休めるんだ?」
教廷の善後処理に、決まった日程などあるはずがない。
そもそも魔族の侵入や邪神による災害、異端の出現といった事態が、朝九時から夕方五時までの間にきっちり起きるわけでもない。
つまり――何日休めるかなんて、結局のところ教廷の気分次第なのだ。
「一日」
その短い答えを聞いた瞬間、ウェイの胸に教皇を殺してやりたいという衝動がふつふつと湧き上がった。
彼は驚愕の表情で妻を見つめた。契約結婚とはいえ、同じく酷使される境遇は、彼の前世に残るPTSDを呼び覚ますほどだった。
「たった一日!?」
「うん……最近、討伐隊の失踪事件を調べているの」
彼女は少し力の抜けた声でそう答え、抱かれたままの体勢で、こっそりと息を吸い込んでエネルギーを取り戻そうとした。
「教廷の調査でわかったの。大冒険者ヴィスが率いた討伐隊は、ブルック都市国家じゃなく、まったく別の場所で全滅していた。それに――ゴブリン族の集落で見つかった遺品も、あとから誰かが人為的に置いたものだったのよ」
彼女は小さく息を吐き、淡々と続けた。「今は教廷全体がこの件の真相解明に奔走してる。だから……何か突破口が見つかるまでは、私に休暇なんて望めそうにないわね」
本来なら、これらは教廷の極秘事項であり、外部に漏れることなど決して許されない内容だった。
だが、相手がウェイであれば――少しくらい話すのは問題ない。
結局のところ、彼はただの「普通の人間」にすぎないのだから。
「何か証拠はあるのか?誰の仕業だと思う?」
――リン・元魔王・いまはただの普通の人間、ウェイは、わずかに緊張を帯びた声で問いかけた。
「私は……そうね、教皇は“魔王の仕業”だと見ているわ」ヴィアは少し考え込むように言葉を選び、ゆっくりと続けた。「討伐隊の全員が精鋭だったの。あの規模の部隊を、何の痕跡も残さず葬れる存在なんて……魔王以外に考えられないでしょうね」
辺境を出て、たった三ヶ月足らずで全滅なんて――ありえない!
「え?なんだか怯えてるみたいね」
そのとき、ヴィアはようやくウェイの顔に浮かんだ緊張の色に気づいた。
ヴィアは少し得意げな表情で彼を見つめ、気怠げな声で口を開いた。
「でも安心して。もう結婚したんだから、当然あなたのことは守るわ。そうしないと――未亡人になった、なんて言われるのはさすがに恥ずかしいもの」
ありがとう。確かに怖いよ――
教廷が来たら、抑えがきかなくなって全員なぎ倒してしまうんじゃないかって。
話を戻すと、教廷の捜査力は本当に侮れない。
ここ数年、教廷の疑惑を避けようと細心の注意を払ってきたはずなのに、
討伐隊を「処理」する過程で彼らの慎重さと過去の教訓の活かし方が効いて、痕跡が残ってしまった。
探偵としての嗅覚というか、追跡力は恐るべきものだ。
だから次に討伐隊を処理するなら、もっと手順を練り直す必要がある。
まるで正面で戦ったかのように見せかけて戦闘の痕跡を残し、教廷に段階的に調査させて時間を稼ぐ――そんな偽装を組み込めば、リスクはずっと下げられるだろう。
「それは本当に感謝するよ、美しいヴィア嬢」
我に返ったウェイは、そっとヴィアを見つめて提案した。
「たった一日の休暇なら、明日ロタイにでも行こうか。冬物の買い物でもして、少し気分転換しよう?」
このとき、ヴィアの目はもう、開いているのがやっとというほどに重たかった。
彼女は彼の腕の中で小さくつぶやき、意識は次第に霞んでいくようだった。
「明日は……教廷がロタイで大きく動くの……だから、帰ってきたの……」ヴィアの声はかすれ、言葉の終わりが眠気とともに途切れていった。
ヴィアはウェイの手をぎゅっと握りしめ、仮面を外した素顔はひどく弱々しかった。
それでも、その瞳だけは真剣さを失わず、必死に彼へ注意を促していた。
「あなたは……家でおとなしくしてて。私が……ちゃんと守るから……」か細い声でそう言い、ヴィアはまぶたを重たげに閉じた。「買い物は……次に帰ってきたときに……ね……眠い……」
そう言い終えると、彼女は静かに息を整え、均一な呼吸のほかにはもう、何の動きも見せなかった。
明日ロタイで大きな動きがあるから……わざわざ帰ってきたのか
契約結婚とはいえ、普段のヴィアはいつも冷静で近寄りがたいほどクールだ。
けれど――今の彼女は違った。無防備に眠る姿はあまりにも可愛らしく、ウェイは思わず顔を赤らめた。
そしてこの瞬間、ほんの少しだけ、心が揺れたことを認めざるを得なかった。
「本当に寝ちゃったのか……?」
手を軽く振ってみても反応はなく、完全に眠りに落ちているようだ。ウェイは頭をかきながら、小さくつぶやかずにはいられなかった。
結婚してからというもの、ヴィアの仕事量は目に見えて増えていた。
とくに、世界各地で次々と災害が発生してからは、教廷の業務量はまるで狂ったように膨れ上がっていた。
思い返してみても、ここ最近、彼女が帰宅したときに元気な姿を見たことは一度もなかった。
せっかく久しぶりに帰ってきたというのに、予期せぬ事件のせいで、買い物に出かけることさえできなくなってしまった。
「前はさ、冬に一緒に街へ買い物に行くのを楽しみにしてたのにな……」ウェイは小さく笑い、眠る妻の髪をそっと撫でた。「こっそりお揃いの服まで調べてたくせに……」
そして、ふと真剣な表情に戻る。「――ロタイで“大きな動き”か……」
ロタイは、オルンスの町から最も近い位置にある、国境でも名高い貿易都市だ。
ここからわずか十キロほどの距離にあり、馬車を飛ばせば最速で三十分ほどで着いてしまう近さだった。
もし明日家に留まっていたら――次に彼女が帰ってくるのがいつになるか、まったく分からない。
彼女がこれほど過酷な残業を続けているのは、少なからず自分にも責任がある――。ウェイはそう思うと、胸の奥に小さな痛みが走った。
「まったく……仕方ないな」ウェイは小さくため息をつき、ソファからゆっくりと立ち上がった。
「――ならば……少し“夜の準備運動”でもするか」冗談めかした声とは裏腹に、その目にはどこか決意の光が宿っていた。
確かに、教廷に疑いを持たれるのは厄介だ。だが――やるべきことはやらねばならない。普通の人間を装うために、一生この力を封じ込めて生きるなんて、そんなことはできるはずもない。
すっかり眠りに落ちたヴィアに一度だけ視線を向け、ウェイはそっとその体をソファに横たえた。
そして、静かに息を整えると、音を立てぬよう扉を開け、外へと足を踏み出した。
淡い光がウェイの指先から静かに生まれ、空気の揺らめきとともに凝集していく。ほんの一瞬のうちに、それは複雑で深淵な文様を描く魔法陣となり、やがて音もなく周囲の空気へと溶け込んでいった。
ウェイの姿もまた、光の余韻だけを残してその場から静かに消え去った。
次の瞬間、ウェイの体は流れるような光の帯となって宙を駆け抜け、一直線に雲の彼方――ロタイへと向かっていった。