玲奈が引き当てたのは「本」、すなわち、書斎付きの主寝室だった。この別荘で最も広く、最も豪華な部屋だ。
南に面した広大なバルコニー、巨大なウォークインクローゼット、休憩スペース付きの書斎。これらがワンフロアを完全に占有している。
バルコニーに出れば、視界いっぱいに広がるコバルトブルーの海。頬を撫でる海風は柔らかく、日差しも完璧だ。
寝室は全面ガラス張り。配置された家具の一つ一つが、洗練された贅沢を主張している。
阿部夫婦は、人生でこんな部屋を見たことがないようだった。玲奈が一通り案内し、設備の使い方を説明しても、二人は夢の中にいるような顔で立ち尽くしていた。
父が信じられないというように玲奈を見る。「俺たちが……今夜、ここで寝るのか?」
その挙動不審さが、玲奈にはどこか愛らしく映った。彼女は小さく頷く。「そうよ。今すぐシャワーを浴びて、ふかふかのベッドで眠るといいわ」
ここまで来るのに、二人は慣れない長旅で疲弊しているはずだ。
だが、夫婦は縮こまり、高価そうな調度品に触れることすら恐れていた。「もっと……その、簡単な部屋はないのかい? うっかり中の物を壊したら、弁償なんてできないよ」
「……」玲奈は苦笑し、肩をすくめた。「壊しても平気よ。制作側は私たちを詰め込んで大儲けしてるんだから、それくらい経費で落ちるわ」
『wwwww 正論すぎる。玲奈のツッコミが的確すぎて草』
『渡辺監督、聞いてるかー? それにしても玲奈、キャラ変わった? ただの面白い姉ちゃんになってるんだけど』
『この部屋マジで最高だな。オーシャンビューとか夢すぎる』
『玲奈の豪運やばい。それに比べて階下の井上と愛莉ちゃんよ……腹筋崩壊したわwww』
階下。
井上昭彦と坂本愛莉のチームは、それぞれの部屋に入った瞬間、揃って顔色が悪くなった。
井上が引いたのは「高齢者向け居室」。
愛莉が引いたのは「使用人部屋」だった。
井上の部屋はまだマシだ。専用のバス・トイレと庭がついている。ただし、ベッドはシングルが一台。他にはテレビとタンスがあるだけで、殺風景極まりない。
悲惨なのは愛莉だ。数平米の狭小空間。シングルベッド一台と簡素なタンス、申し訳程度のシャワーブースだけで床が埋まっている。三人が立つだけで酸欠になりそうな狭さだ。
『ギャハハハハ! リモコンってゲームじゃなくて「介護用ベッドのリモコン」かよ! 井上の顔www』
『さっき玲奈が意味深に笑ってたの、これ知ってたからかwww』
『愛莉ちゃん不憫すぎるwww お嬢様があんなタコ部屋に……』
『いや番組側やりすぎだろ。高齢者部屋は分かるけど、あの狭さに大人三人は無理がある。監督が住んでみろよ』
目の前の「独房」を見て、坂本昭文の顔が瞬間沸騰したように赤黒く染まる。
「どういうつもりだ? 我が坂本グループからの出資が足りないとでも言うのか!」
人生で、これほど粗末な部屋を見たことがない。ましてや使用人部屋など、屈辱以外の何物でもない。
愛莉も表情を強張らせていたが、カメラの前では「良い子」の仮面を外せない。彼女は懸命に笑顔を作り、父をなだめた。「お父さん、きっと番組の演出よ……」
だが、昭文のプライドは傷ついたままだ。「演出だと? ふざけるな! 追加出資してやるから、すぐに部屋を変えろ!」
PDは脂汗を流しながら、必死に弁明した。「へ、部屋は公平な抽選で決まりましたので……放送規定上、変更は認められません」
「なんだと貴様……」
「パパ、もういいわ。たかが一晩よ。三人でくっついて寝ましょう」
坂本夫人がカメラを意識して口を挟んだ。「我慢してやり過ごしましょう」
昭文は眉間に深い皺を刻み、苦虫を噛み潰したような顔で黙り込んだ。
『うわ、パパかっこよ! 金で解決しようとするあたり、さすが社長』
『坂本家がスポンサーだったの? 自分のボスにあんな部屋あてがうとか、スタッフ勇気ありすぎだろ』
『でもクジ引いたの愛莉ちゃんだし、文句言うのは筋違いじゃね?』
『てか玲奈さ、普段から「私は坂本グループの令嬢よ」って吹聴してたじゃん? 今こそ実の両親と部屋代わってやるべきじゃね? 玲奈の養親なら貧乏慣れしてるだろうし』
六組の部屋がすべて公開された。村上美咲、小林昭夫、岡本凛太郎の三人は、それぞれ「女の子ルーム」「客室」「子供部屋」を引き当て、まずまずの環境だ。
玲奈が最高の部屋を当てたと聞き、全員が荷物を置いて見学にやってくる。
井上昭彦は、玲奈の部屋を見るなり嫉妬で顔を歪めた。
書斎には、彼が喉から手が出るほど欲しがっていた最新の『地獄のSOh』まで完備されていたのだ。
対して、彼の崇拝する愛莉先輩は、あんな独房のような部屋に押し込められている。
彼は疑いの眼差しで玲奈を睨みつけた。「お前、裏で金渡して買収したんだろ? じゃなきゃ、一発でこんないい部屋当たるわけねーじゃん」
本なんか読むようなタマかよ、と目は語っている。
玲奈は冷ややかな視線を彼に流した。「そうね。坂本グループのパパにおねだりして買ってもらったのよ」
井上は絶句した。「……は?」
誰がパパだって?
この女、図太すぎる!
『wwwww 腹痛いwww 自分の炎上ネタを逆手にとったwww』
『今の玲奈、無敵かよ。メンタル強すぎ』
そこへ、坂本昭文がやってきた。彼は主寝室の豪華さを一目見て満足げに頷くと、当然のように玲奈へ言った。「この部屋を私に譲れ。私と……妻や愛莉が、あんな使用人部屋で寝られるわけがないだろう」
玲奈は鼻で笑った。ゆっくりと振り返り、冷たい瞳で父を射抜く。「坂本会長。あなたは今、どういう立場で私に命令しているのかしら?」
「玲奈、いい加減にしろ」昭文の顔色が沈む。彼は阿部夫婦を指差した。「彼らは、お前にそういう教育しかしてこなかったのか?」
その場に残っていた井上が、ここぞとばかりに口を挟んだ。
玲奈がネットの噂を利用して会長を怒らせたのだと察し、恩を売ろうとしたのだ。
彼は鼻をこすり、諭すように言った。「会長の言う通りだろ。玲奈、部屋を交換してやれよ。あっちの部屋は環境が悪すぎる。会長たちが住めるわけないだろ」
玲奈は井上を向き、心底不思議そうに首を傾げた。
「頭、湧いてるの?」
井上の顔が引きつる。「あ? 何だと」
「間違ったこと言った? 会長たちは、あんな狭い部屋は無理よ。でも、あなたの家なら慣れっこなんじゃない? 礼儀作法も知らないみたいだし、あなたが代わってあげたら?」
「はあ……?!」
『???』
『助けて、この男たち何言ってんの?』
『引くわー……。玲奈のこと嫌いだけど、部屋決めは公平だったろ? 井上が「交換しろ」って命令するのはおかしい。見ててムカつく』
『昭彦くん、もう黙ってて!! ママ心臓止まりそう!』
『演出だよ演出! 台本だから! うちの子を叩かないで!』