井上の暴言に対し、玲奈は眉一つ動かさなかった。だが、阿部夫婦の顔からは血の気が引いていた。
二人は居心地が悪そうに身を縮め、玲奈の顔色を窺っている。
その時、坂本夫人がキッチンから優雅に歩み出てきた。「あら、井上くんったら。そんな言い方しなくてもいいじゃない」夫人は口元に品の良い笑みを浮かべ、阿部夫婦へと視線を流した。「私たちはそんな些細なこと、気にしたりしないわ。……でも、心配ね。私たちが用意したお料理、あなたたちのお口に合うかしら?」
声音は柔らかく、友好的ですらある。だが、眼差しには隠しきれない侮蔑が滲んでいた。
あなたたちのような人間に、この味が分かるの?そう語っていた。
玲奈は冷ややかに鼻を鳴らした。
母もその含意を敏感に察したのだろう。おずおずと玲奈の袖を引く。「玲奈……あの、やっぱり私たちが作りましょうか?」
「そうね」玲奈は頷いた。原作の記憶が確かなら、母の料理の腕は確かだ。「一緒に作りましょう」
「ええ、そうしよう」母の表情が、ようやく和らいだ。
冷蔵庫には食材がたくさんあり、様々な種類が揃っていた。阿部の母は野菜を洗い、阿部の父は米を研いで炊飯器にかけ、二人は息の合った動きを見せた。
玲奈は脇で卵を割ったりニンニクの皮をむいたりしていた。彼女の正面にはカメラがあり、彼女の清らかで美しい顔と、白くて長い指が映し出されていた。
『ちょ、待って。玲奈ってこんなに綺麗だったっけ? ニンニク剥いてるだけなのに画になるって何事』
『ああああお姉様! ニンニクじゃなくて私を剥いて! お風呂入って待ってるから!』
『↑服を着ろ変態。でも阿部家の空気感いいな。静かだけど、お互いを大事にしてる感じが伝わってくる』
『いや、意味分かんないでしょ。愛莉ちゃんたちがもう夕飯作ったのに、なんでわざわざ別に作るわけ? 当てつけ?』
コメント欄が賛否両論で荒れる中、夕食があっという間に完成した。
四品のおかずと一つのスープ。キッチンは瞬く間に香りに包まれた。
すでに食事を始めていた村上美咲が、鼻をひくつかせた。「わぁ、いい匂い! 玲奈ちゃん、何作ったの?」彼女はフォークを咥えたまま、興味津々といった様子で覗き込んでくる。
玲奈は出来上がった皿を運びながら、口の端を緩めた。「適当な家庭料理よ。……美咲、少し食べる?」
「食べる!」美咲に迷いはなかった。食い気味に返事をすると、すかさずフォークを伸ばして肉炒めを口に放り込む。瞬間、彼女の瞳がカッと見開かれた。「んんっ! おいしっ! これ、おば様が作ったんですか!?」
阿部の母は照れくさそうに笑う。「ただのあり合わせですよ」
井上昭彦が横目でチラリと見た。確かに、ただの家庭料理だ。だが、その照り、立ち昇る湯気、鼻腔をくすぐるスパイスの香り。彼はゴクリと喉を鳴らした。条件反射で箸を伸ばしつつも、口では憎まれ口を叩く。「どうせその辺の定食屋レベルだろ? 坂本のおば様が焼いた最高級ステーキに勝てるわけが――」
パクり。言葉が、途切れた。
『テロップ:※静止画ではありません』
『wwwww どうした井上! フリーズしたぞ』
『目www 目がバッキバキなんだけどwww』
『飯テロやめて……画面越しに匂いしてきそう。てか、うちの母ちゃんの飯より美味そうなんだが(失礼)』
「ねぇ、どうなの? 美味しいでしょ?」美咲が追い打ちをかける。「このジャガイモの千切り炒め、酸味と辛味のバランスが神がかってる! 私、ジャガイモでこんなに感動したの初めて!」
井上は唇を舐め、一瞬の葛藤の後、猛然と箸を動かし始めた。「……味がよく分かんなかったから、もう一度確認する」
「あ、この麻婆豆腐もすごい! ピリ辛でふわふわ! おば様、料理の天才ですか!?」
美咲はフォークで豆腐を掬おうと悪戦苦闘している。
見かねた玲奈が、新しいレンゲを渡した。
「ありがとう玲奈ちゃん!」美咲はレンゲを受け取ると、わんこそばの勢いで豆腐を口に運び始めた。ふと我に返り、おずおずと尋ねる。「あ、あの……これ、いくら食べても太らないやつだよね?」
玲奈は吹き出しそうになるのを堪え、首を横に振った。「ええ、カロリーゼロよ」
『咲ちゃんwww その意識は食べる前に持とうねwww』
『この二人のおバカに殺されそうよwww』
『あれ? 玲奈ってこんなに笑う子だったっけ?なんかいいな。玲奈が美咲を見る目が優しい』
『俺の嫁に笑いかけるな! いやもっと笑って!』
その場にいる全員が、所詮は日本人の胃袋を持っていた。美咲のオーバーな食レポを聞いて、我慢できるはずがない。一人、また一人と、坂本家の豪華なディナーを放棄し、阿部家の食卓へと吸い寄せられていく。一口食べれば、もう虜だった。
村上の母が感嘆の声を上げる。「奥さん、これ本当に美味しいわ。火加減が絶妙。私には真似できないわね」
小林昭夫も箸が止まらない。「正直、ウチの母ちゃんの飯より美味いッス。家庭料理ってこんなに進化するもんなんスね」
「こら、親の前で何言ってるの!」小林の母が息子の背中を叩くが、その顔も笑っていた。
『小林さん正直すぎwww』
『何この平和な世界。さっきまでの殺伐とした空気どこ行った?』
坂本の父もついに箸を取り、一口食べて、表情が変わった。
だが、プライドがそれを許さない。彼はすぐにすました顔に戻り、口を拭った。
「まぁ、悪くはない。だが、うちの家政婦の味には及ばんな」
空気が凍った。向かい側では、愛莉と坂本夫人の笑顔が引きつり、限界を迎えようとしていた。
一生懸命作ったフルコースが、誰にも見向きもされない。
それどころか、見下していた庶民の料理が絶賛されているのだ。
坂本夫人の瞳に、どす黒い嫉妬が走る。「……そうね。うちの料理には手を付けず、わざわざ自分たちで作るくらいですもの。よほど自信がおありなんでしょう。私も少しいただこうかしら」
夫人が立ち上がり、箸を伸ばそうとした、その時。
玲奈の手が伸び、夫人が狙った皿を鮮やかにさらい取った。代わりに置かれたのは、夫人が作った冷え切ったサラダ。「あら」玲奈は能面のような笑みを浮かべ、冷ややかに言い放った。「坂本会長、それに夫人。あなた方はそちらを召し上がってください。あなたたちのような高貴な舌には、母さんの作る『家庭の味』なんて合わないでしょうから」
「なっ……!」夫人が顔を真っ赤にして言葉を詰まらせる。
「ママ、落ち着いて」愛莉が慌てて割って入った。困り顔を作り、玲奈を見る。「玲奈ちゃん、そんな言い方ないじゃない。ママはただ、味見をしてみたかっただけで……」
「遠慮しないで」玲奈は愛莉の言葉を遮り、さらに追い打ちをかけた。「母さんはあなたたちの家の家政婦じゃないわ。それに、自分たちで作った料理でしょう? 責任を持って最後まで食べきることね。食品ロスは感心しないわよ」
坂本夫人の顔色は、もはや土気色だった。
『wwwww 「高貴な舌には合わない」www 最高の皮肉www』
『…玲奈は本当に育ちが悪いね、参った』
『そうでしょ?愛莉と坂本ママが夕食担当だって言ったのに、阿部家が自分で作って、わざと目立とうとしてる。この家族全員が嫌な人たちだわ!』
『??これも阿部ママのせい?皆さん戻って見てよ、井上昭彦と坂本女史があんなこと言わなかったら、阿部家は自分で作る必要あった?誰だって食べられないわ!』
『坂本パパの発言がすべての元凶。あんなこと言われたら、私だって一口もあげたくない。玲奈、よくやった!』
『高貴な舌には合わない! 名言出ましたwww』