頭を上げて迫る車を見つめても、詩織はなぜか身を引くことすらしなかった。その刹那——誰かの手が彼女の腕をぐいっと引き、車を紙一重でかわした。「お嬢さん、死ぬ気なのか!車が来てるのに避けもしないなんて!」
詩織の顔には、場違いなくらい落ち着いた表情が浮かんでいた。そのまま何事もなかったように歩き去ろうとした。
「おい、ちょっと待て——!」
「何のつもり?」詩織は唇をきゅっと結び、警戒そのものの視線で相手を見据えた。
目の前に立っていたのは三十代ほどの男性で、カジュアルな服に野球帽をかぶっていた。詩織が顔を上げた瞬間、彼の瞳に明らかな驚きが宿った。
詩織はその顔を見た途端、ぴたりと動きを止めた。眉をさらにきつく寄せると、何も言わず背を向けて立ち去ろうとした。
背後の男はあわてて彼女の肩に手を伸ばし、再び呼び止めた。興奮を隠しきれない声でまくし立てる。「待ってください、誤解しないで!これ、名刺です。清水拓也(しみず たくや)といいます。ATメディアの責任者です。ようやく——ようやく探していた人を見つけた気がして……!あなたは撮影にぴったりなんです、ぜひ——」
「すみません、興味ありません」
詩織はきっぱりと言い放ち、男の言葉を断ち切ると、しなやかな身体を翻して人混みの中へと消えていった。
拓也は彼女の姿が人混みにあっという間に呑まれていくのを見送り、必死に周囲を探したものの見つからない。思わず小さく舌打ちし、低く悪態をついた。
何日も歩き回って、ようやく理想の子を見つけたというのに——結局、取り逃してしまった!
数人の学生が横を通り過ぎるのを見て、清水は一度不機嫌そうに眉を寄せた。だが次の瞬間、ぱっと目を輝かせた。
そうだ——彼女は学生じゃないか!
……
クラスでは秀才と讃えられ、憧れの的からは “女神” 扱いされる詩織は、机に置かれた青いラブレターを、いつもの癖でそのまま捨てようとした。
「嘘でしょ、詩織。中身も見ないの?私なんて一度ももらったことないのに!」隣の子が不満そうに声を上げ、詩織の手元の恋文を見つめるその目は、まるで自分が受け取ったかのように輝いていた。
詩織は一瞬言葉に詰まり、小さくため息をついた。——こんなに机を占領されて、こっちだって結構しんどいのよ。
荷物をまとめて下校しようとしたそのとき、携帯が突然震えた。詩織は表示された番号を見て、ふっと微笑んだ。
……
電話に出た途端、からかうような軽い声が飛んできた。「美人さん、ちゃんと家でお利口にしてる?あさって会えるね。夜はしっかりお風呂入って、ベッドで待っててよ、いい?」
「もう、そういう冗談やめてってば。気をつけて帰ってきてね。あさって、ちゃんと待ってるから」詩織は苦笑しながら、そっと首を振った。
「ほら、おいで。キスしてよ」
詩織は周りを見渡し、学生だらけなのに気づいて途端に顔をしかめた「お願い……今ちょうど下校中なの。人がいっぱいで無理だよ……」
「知らな〜い。キスしてくれないと、夏目様ご機嫌ナナメになっちゃうけど?」
詩織は観念したように手で口元を隠し、そっと携帯の画面にキスを落とした。「……これで夏目様はご満足?」
電話を切ると、いつもは硬い表情のその顔が、ようやくふっと緩んだ。
電話の相手は、ほかでもない——親友の七海だった。
七海はというと——暴漢もチンピラもまとめて叩きのめせる、筋金入りの “姉御肌の腐女子” だった。
七海いわく、もし詩織が “秀才” なら、自分なんて秒で粉々にされるらしい。勉強にはまったく興味がなく、彼女の趣味はというと——かなり独特だった。
——人を殴ること。
七海は格闘技の達人で、武術を専門に学んでいる。実を言えば、詩織が身につけたわずかな護身術も、全部七海直伝のものだ。もし七海が明宏の裏切りを知ったら――ふふっ……彼の身の安全は、まず間違いなく保障されないだろう。
今は文化科目の復習のために戻ってきて、映画大学の受験を目指しているところだった。
幼い頃からアクション女優に憧れていて、最終目標はハリウッド進出だった。
七海がもうすぐ戻ってくる――そう思うだけで、詩織の気分は自然と晴れていった。
しかし、その喜びは長く続かなかった。再び電話が鳴り、詩織は画面に表示された発信者を見た途端、表情を固くし、きゅっと眉を寄せた——。