彼女はただ、普通に生きていきたかっただけだった……。
もしも原作『兄弟たちは皆絶世』に、高橋浩の本当の姿が蛟龍だと書かれていなかったなら、
おそらく彼女は、浩を恐ろしい大蛇だと思い込んでいたことだろう。
渡辺水紀は、その血に飢えたような冷たい紫の瞳を直視することすら怖かった。
なぜなら――
この世界において、神力の天賦は「赤・橙・金・緑・青・藍・紫」の順に分けられていたからだ。
瞳の色こそが、神力の資質を示していた。
その頂点に立つ象徴――紫瞳。
砂都では、たった一人だけがその持ち主だった。
——
高橋浩。まさしく王の名にふさわしい存在。
万獣から崇拝される彼は、まるですべての命を意のままに操ることができた。
なにしろ、一般的な獣人は皆、赤い瞳をしている。
最低位の赤は、獣としての殺気がまだ収まりきっていない証。
それ以外の色を持つ獣人は、極めて稀だった。
渡辺水紀の黒い瞳は、この獣世で唯一無二のものであり、不吉のしるしと見なされていた……
要するに、ヒロインに出会えば、それは不幸の始まりになりかねない。
ならば、死ぬ前に――
生き残る道を探しておくべきだ。
そう考え抜いた末、水紀は……命知らずな決断をした。彼に、執着し続けること。
なにがなんでも、高橋浩に先に自分を好きにさせる。
そうすれば、生き延びる可能性もあるかもしれない。
そこで水紀は、思い切って声を発した。
「ふ……おと……お父さん」
これは、この間で彼女が初めて覚えた言葉だった。
だが――
浩は答えず、視線を上げることすらなかった。
相変わらず冷淡な表情のまま。
依然として奏章に目を落とし、筆を走らせていた。
けれど、不思議なことに――
彼は膝の上の渡辺水紀を、そのまま放っておいたのだった……
しばらくすると、突然扉を叩く音が響いた。
長老が、さらに多くの奏上書を抱えてきたのだ……
その尊敬を集める長老は、見るからに年老いていた。
白い髭を蓄えた古稀の翁のような風貌であった。
浩の袖をつかんでいた水紀は、
首をかしげて新しく差し出された奏章をのぞき込んだ。
その機に乗じて、より多くの古文字を目にすることもできた。
ここの文字は、奇怪な形をした甲骨文に似ていた……
だが驚くべきことに――彼女にはそれがすべて読めたのだ!
信じられないことだった。
奏上書に「王様」という二文字が書かれているのに気づいた。
そこで水紀は、自らの才能を示そうと、必死に音をつなげて言葉を紡いだ。
どもりながらも声を絞り出す。
「お、おとうさん……こ、れ、は(これはあなた)」
奏上書を指差し、
さらにもう片方の手で、高橋浩本人をはっきりと指した。
その瞬間、傍らにいた長老は驚愕に目を見開いた。
そして羨望を込めて言った。
「姫様の才能は、まるで王様の若かりし頃のようです」
その媚びた言葉に、水紀は心の中で鼻であしらった。
すると、今度は
浩もついに反応を示した。
「ふむ、まあまあ」
……まあまあ、とはどういう意味だ?
この年齢で、独学でこれほど多くの字を読めるというのに?
それを「まあまあ」と言うのか?
水紀は少し落胆した。
だが――そのとき気づいてしまった。
浩の冷たかった唇の端が、
ほんのわずかに、見えないほど小さく……上がっていたことに。
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——『兄弟たちは皆絶世』原作抜粋。
「高橋浩は、生まれながらに冷ややかな男だった。
最初に一目見てから……
次第に、渡辺水紀という存在をも忘れていった。
王宮での時間は、もっぱら奏上書の批閲に費やされる。
そんな退屈で硬直した彼の世界に、いつの間にか渡辺琴音という存在が現れた。
琴音はまだ言葉を話せなかった。
だが彼を見ると、いつも瞳を輝かせて笑いかけてきた。
そのたびに、彼は初めて知ったのだ。――父親になる喜びというものを。