第03話:壁越しの裏切り
詩織は階段の影に身を隠し、息を殺して二人の会話に耳を澄ませた。
「詩音のことは心配するな。俺たちの戸籍に入れる手続きを進めている」
怜の声は、詩織に向けるものとは全く違っていた。深い愛情に満ちている。
「本当?でも詩織は……」
「詩織のことは気にするな。あいつとの結婚は表向きのものだ。お前に手を出すなと言っただろう」
詩織の膝が震えた。表向きの結婚。
「でも、お義母さんは私のことを……」
「母さんはお前のことを昔から気にかけていた。本当の嫁だと思っているのはお前の方だ」
彩霞という名の女性が安堵のため息をついた。
「よかった。私、ずっと不安だったの」
詩織の胸に鋭い痛みが走った。義母が自分を受け入れてくれなかった理由。それは最初から彩霞を嫁として見ていたからだったのか。
すべてが繋がった。すべてが嘘だった。
二人は階段を上がっていく。詩織は震える足で後を追った。
二階の廊下で、怜と彩霞は人気のない物置部屋に入っていく。
詩織は壁に背中を押し付け、隣の部屋に滑り込んだ。
壁一枚隔てた向こうから、二人の声が聞こえてくる。
「詩織は堅すぎるんだよ……君みたいに海外で奔放に過ごしてきた女じゃないからな」
怜の声だった。
詩織の指先は、掌の中に深く食い込んだ。
「そんなこと言わないで。詩織だって一生懸命やってるじゃない」
「お前は優しいな。でも俺にとって本当に大切なのは……」
それ以上は聞こえなくなった。代わりに聞こえてきたのは、詩織の心を引き裂く音だった。
詩織は壁に額を押し付け、目を固く閉じた。涙が頬を伝って落ちる。
5年間。5年間信じてきたすべてが、この瞬間に崩れ去った。
詩織はその場を離れ、ふらつく足で院長室へ向かった。
「影宮さん、お疲れさまです」
院長が詩織を迎えた。
「詩音ちゃんの件ですが、個人資料をお見せしましょう」
差し出された書類に目を通した瞬間、詩織の手が震えた。
詩音の誕生日。5年前の春。
詩織と怜が結婚して半年後。怜がプロポーズした時期に、彩霞は妊娠していたのだ。
「詩音を……引き取りません」
詩織の声は震えていた。
「え?」
院長が驚いた表情を浮かべる。
「私たちには、詩音を育てる資格がありません」
その時、院長室のドアが勢いよく開かれた。
「なんで勝手に決めるんだよ!」
怜が怒りの形相で乱入してくる。
詩織は振り返ると、冷たい視線で夫を見つめた。
「私に相談した?」
怜の背後から、美しい女性がひょっこりと顔を出した。
「やっほー、詩織。久しぶり」
彩霞が人懐っこい笑顔で手を振る。