第5話:崩れ落ちる信頼
[氷月詩織の視点]
「きゃああああ!」
美夜の悲鳴が階段に響き渡った。
咄嗟に手を伸ばす。美夜の服のボタンに指が引っかかり、プラスチックの小さな音と共に弾け飛んだ。
でも、美夜の体は止まらない。階段を転がり落ちていく。
「美夜!」
角の向こうから怜の声が響いた。足音が駆け寄ってくる。
美夜は階段の途中で止まり、うつ伏せに倒れていた。動かない。
「何をした!」
怜が現れるなり、私の肩を掴んで激しく揺さぶった。
「違う、私は——」
「詩織が突き落としたのか!」
問答無用で私を突き飛ばす。背中が壁に激しくぶつかり、息が詰まった。
怜は美夜の元へ駆け寄り、優しく抱き起こす。
「美夜、大丈夫か?意識はあるか?」
「う……うん……」
美夜がかすかに目を開ける。でも、その瞳には意識がはっきりと宿っていた。
「詩織を……責めないで……」
か細い声で呟く。
「彼女はただ……雫のことが、あまり好きじゃないだけ……」
巧妙な言い回し。まるで私が嫉妬から美夜を突き落としたかのような印象を与える。
「詩織!」
怜の怒声が響く。
「美夜に何もなければいいが……そうじゃなかったら、ただじゃ置かないからな」
脅迫めいた言葉を投げつけ、怜は美夜を抱えて階段を駆け下りていった。
一人残された私は、壁にもたれかかったまま動けずにいた。
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騒ぎを聞きつけた院長が、息を切らせて駆けつけてきた。
「氷月さん、大丈夫ですか?」
院長は詩織を助け起こそうと手を差し伸べたが、何も言わずに立ち尽くしていた。明らかに事態を把握しかねている様子だった。
「手のひらから血が出てますね」
院長が心配そうに言う。
「大丈夫です」
詩織は立ち上がろうとしたが、膝が震えて思うように動かない。
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[氷月詩織の視点]
手のひらを見ると、壁にぶつかった時にできた擦り傷から血が滲んでいた。
「院長」
私は震える声で言った。
「私、ボランティアを何年もしてきましたよね。あなたとは……もう友達だと思っていたのに」
院長の表情が曇る。
「氷月さん……」
「なぜ何も言ってくれないんですか?私が美夜さんを突き落としたと思ってるんですか?」
「それは……現場を見ていないので……」
日和見的な態度。誰の味方もしない、安全な立場を選んでいる。
「雫ちゃんは影宮さんによく懐いているんですよ」
院長が話題を変えようとする。
「影宮さん?」
「ええ、怜さんのことです。雫ちゃん、『パパ』って呼んでるんです」
胸に鋭い痛みが走った。
雫は既に怜を父親だと認識している。私の知らないところで、既に家族として成立していたのだ。
「そうですか」
力なく呟いて、私は院長室を後にした。
車に向かう足取りは重く、まるで鉛を引きずっているようだった。
運転席に座り込み、ハンドルに額を押し付ける。
5年間。
5年間も騙され続けていた。
スマートフォンを取り出し、連絡先を開く。
5年間、一度も連絡していなかった番号。
夜刀神(やとがみ)刹那(せつな)。
元婚約者。
指が震えながら、通話ボタンを押した。
「もしもし」
低く落ち着いた声が響く。変わらない声だった。
「刹那」
「詩織か」
驚いた様子もない。まるで私からの連絡を予想していたかのような口調だった。
「あなたと私の婚約、まだ有効なの?」
単刀直入に尋ねた。
「人妻じゃないか」
皮肉っぽい笑いが聞こえる。
「愛人を探すなら、俺は適任じゃない」
「答えて」
「詩織——」
私は一方的に電話を切った。
車を路肩に停め、頭を抱える。
その時、スマートフォンにメッセージが届いた。
美夜からだった。
『詩織、五年間の影宮の正妻の生活って、どんな気分?』
メッセージと共に、GIF画像が送られてきた。
怜が美夜の靴紐を結んでいる動画。
優しく、愛おしそうに。
私には一度もしてくれたことのない仕草だった。
「もう……限界」
涙が溢れ出した。
その時、再び電話が鳴った。
刹那からだった。
「もしもし」
「ちょっと気をつけてれば、住民票が偽物だってもっと早く気づけたはずだよ?」
心臓が止まりそうになった。
「あなた……知ってたの?」
「5年前から」
淡々とした口調。
「なぜ教えてくれなかったの?」
「君が選んだ道だ。俺に止める権利はない」
しばらく沈黙が続いた。
「詩織」
刹那の声が優しくなった。
「有効だ。ずっと有効のままだ」
「え?」
「俺と君の婚約は、永遠に有効って意味だ。君さえ望めば、俺はいつでも。詩織の正式な夫になる準備ができている」
胸の奥で、何かが温かくなった。
「本当に?」
「嘘をつく理由がない」
「会える?」
「いつでも」
「来週の月曜日」
「場所は?」
私は迷わず答えた。
「潮ノ宮の市役所前で」