石川瑠那は絶叫しながら膝をついた。だがもう遅かった。砕け散ったものは二度と戻らない。
頭の中が真っ白になり、爪が肉に食い込むほど拳を握りしめる。震える体で畑中美咲を見上げると、その血走った眼差しはまるで獣のようだった。
美咲は一歩後ずさったが、すぐに自分に言い聞かせる。――相手はただの負け犬に過ぎない。恐れることなんてない。そして顎を高く上げ、冷たく言い放った。
「なにをそんなに取り乱してるの?自分で落として壊したんでしょう。私のせいにしないで。書類にはもうサインしたんだから、さっさと出ていきなさい。畑中家とあなたはもう無関係よ!」
まるで物乞いを追い払うような声音だった。
瑠那の胸に、五年間の屈辱と苦しみが一気に込み上げてくる。
畑中颯太のことを、昔は本気で好きだった。あの頃、少女の心に彼の姿はあまりに眩しく映った。だが五年の地獄のような結婚生活は、その思いを徹底的に踏みにじった。
「颯太さん、お願い……。祖母はずっと、あなたに一度でいいから会いたいと願っていたの。今は病状も悪化していて、医者からは高額な治療費が必要だと言われてる。私が離婚に応じたことへの手切れ金と思って、どうかお金を……。必ず返すから」
最後の誇りを捨て、かすれた声で懇願した。
だが颯太の目には一片の情けもなかった。離婚届を手にしたまま、薄く口角を吊り上げる。
「自分で出ていくか、それとも用心棒に引きずり出されたいか。……五年間、俺はお前に一度だって触れてない。なのにどうして金をせびれる?風俗嬢だって、客を満足させた後で金を取るんだぞ。それに、お前みたいに子どもを産んで体も崩れた女が、そんな高値つくとでも?」
それが畑中颯太だった。石川瑠那に対して、容赦なく毒を吐き続ける男。
「颯太っ!」
瑠那は立ち上がり、荒い息を吐きながら二人を睨みつける。悲しみ、屈辱、怒り――あらゆる感情が頭の中を渦巻く。最後に深く息を吸い込むと、美咲に駆け寄り、その頬へ渾身の力で平手を叩きつけた。
「きゃあっ!何するのよ!離しなさい、この狂女!」
美咲の顔は真っ赤に腫れ上がり、血の味が口に広がる。二人はすぐに掴み合いになった。
颯太は顔をしかめ、用心棒に命じて二人を引き剥がさせる。
「石川瑠那!殺してやる!」
美咲は顔に爪の深い傷を負い、血がにじんでいた。容姿こそが彼女の誇り。それを壊された怒りは尋常ではなかった。
瑠那も無傷ではない。頬は腫れ、髪も乱れている。それでも彼女は用心棒を突き飛ばし、床に落ちたバッグを拾うと、颯太めがけて力いっぱい投げつけた。
「今日の屈辱、必ず百倍にして返す!そしてあんたもよ、美咲!さっきの仕打ち、絶対に後悔させてやる!」
バッグの角が颯太の額を直撃し、血がにじむ。彼はさらに険しい顔つきになった。――こいつは離婚で頭がおかしくなったに違いない。
「放り出せ。二度と畑中家の敷居をまたがせるな」
用心棒に両腕を掴まれ、瑠那は引きずられていく。最後まで、真っ赤に充血した視線は颯太に向けられていた。
「ドンッ!」
玄関の外、まるでゴミのように地面へ投げ捨てられる。体中の骨がバラバラになりそうだった。
「さっさと消えろ。畑中家はお前みたいな女の来る場所じゃない」
「縁起でもない奴め。頭のおかしい女だ」
罵声を背に、瑠那はゆっくりと立ち上がる。腫れた頬に手を当てると、大粒の涙が次々とこぼれ落ちた。足を引きずりながら、彼女はただ一つの望み――祖母の待つ病院へと歩き出した。