「クソッ、早く追え!逃がすなよ!……」
黒い影が個室から飛び出した。千葉詩織はチップをポケットにしまい込み、その美しい白磁のように白い小さな顔に表情は一切なかった。
「ボス、左手方向に行って、S組の連中がもうすぐ追いつくぞ」
イヤホンから江口健太の焦った声が聞こえた。千葉詩織は長く濃い睫毛の下から一瞥し、迷わず左側へ走り出した。
S組が持っていたチップは加賀(かが)技師が亡くなる前に心血を注ぎ開発したものだ。その後、チップは闇市場に流れ込み、千葉詩織の部下たちは一歩遅れた。そうでなければ、S組の連中はチップを手に入れることすらできなかっただろう。
S組は金儲けのために、チップを海外の勢力に売り渡そうとしていた。しかし、彼らのそんな行為を許せば、日本の半導体製造がより困難になるだけだ。
だから、彼女はチップを奪い返した。このチップは彼女の手の中にあってこそ、最大の効果を発揮するのだ。
彼女の計画は成功し、無事にチップを手に入れた。だが、S組はチップが奪われたことをあきらめず、彼女を追い詰めていた。
「前は行き止まりよ」
千葉詩織は美しすぎる狐のような目を細め、少し冷たい声で言った。
「ええと……」イヤホンから江口健太の慌てた声が聞こえる。「行き止まりなわけないだろ?!」
役立たずの味方ほど困るものはない。
千葉詩織は舌先を奥歯に当て、軽く舌打ちした。
ちっ、急に誰かを殴りたくなってきた!
今から別方向へ走るのは間に合わない。彼女はためらわず、上着と帽子を脱いでゴミ箱に捨て、結んでいた髪を解いた。
豊かな長い髪が肩に自然に広がり、彼女の顔立ちをより一層美しく際立たせ、見る者の魂を奪うほどの美しさだった。
「あいつは前にいる、早く追え、逃がすな……」
背後から追手の叫び声が聞こえる中、千葉詩織の冷たい視線は近くにいる男性に注がれた。
男はだらしなく手すりに寄りかかり、シャツの襟元は開き、ネクタイは無造作に片方に引っ張られていた。しかし、それは決して荒んだ印象ではなく、言葉にならないほどセクシーで魅惑的だった。
背後からS組の気配がさらに近づいてきた。千葉詩織は時間を無駄にする余裕はなく、彼に向かって足早に歩いた。
彼に近づく足音を聞いて、秦野蓮は眉をひそめた。どんな空気の読めないやつがここに来るというのだ?
「ちょっと助けて」
少女の冷たくも美しい声が響いた。
彼女だ!
先ほど入り口で見かけた少女だとわかった秦野蓮は、邪魔された不快感が消え、魂を奪うような黒い瞳に遊び心ある笑みが浮かんだ。
「どんな助け?」
少女の要求が無理なものでなければ、彼は何でも手伝うつもりだった。
千葉詩織はもう話さず、白い腕を彼の首に回し、つま先立ちになった。
次の瞬間、少女の鮮やかに赤く潤った唇が彼の唇に重なった。
秦野蓮の瞳は一瞬で深い闇のように暗くなり、喉仏が大きく動いた。
しかし、少女の唇が彼の唇に触れようとした瞬間、彼女は親指を彼の唇に当て、二人の唇の間に隙間を作った。
秦野蓮は自分の心の内がどんな感情なのか一瞬わからなくなり、喉仏がまた動いた。先ほど少女が本当に自分にキスしてくると思った時に感じた、心の中の奇妙なときめきを再認識した。
彼の目の色はさらに深くなった。情けない、こんな少女に心を乱されるなんて……
「どこに消えたんだ……」
S組の連中が急いで追いかけてきたが、見たのは熱に浮かされた恋人同士のように夢中でキスしている二人の姿だった。
S組の男たちの目に疑いの色が閃いたが、前に進もうとした時……
男の冷たく鋭い眼差しが彼らに向けられた。目の奥には邪魔された不快感があり、思わず恐怖を覚えるほどだった。
たった一つの視線に威圧された。
S組の連中は足の裏から頭のてっぺんまで冷たさが走り、一歩も前に進めなくなった。
東京園の最上階にいる人間は皆、富と権力を持つ大物ばかりだ。彼らが敵に回せる相手ではない……
「ここにはいないぞ、別の方向を探せ!」
S組の連中が別の方向へ去っていくのを見て、千葉詩織はまばたきを一つし、彼の首に回していた手を引き、一歩下がって二人の距離を開けた。
「ありがとう」
少女は淡々とした口調でお礼を言い、長くまっすぐな美脚を運んで立ち去ろうとした。しかし、一歩踏み出したところで、大きな手に引き戻された。
「お兄さんを利用して逃げようなんて」
男の低く磁性のある声は、耳に入ると全身がゾクゾクするほど、妙に魅惑的だった。
「そんなうまい話があるわけないでしょ?」
彼は彼女からお礼を要求しているのか?
千葉詩織はポケットに手を入れてお金を取り出そうとしたが、今は彼女の身にはそのチップ以外に一銭もないことに気づいた。
少女が金で彼を追い払おうとしているのか?
彼女の考えを見抜いた秦野蓮は携帯電話を取り出して彼女の前に置き、薄い唇を曲げて低く笑った。その笑みは魅力的で心を惑わすものだった。
「お金はいらないよ。連絡先を残して、一度食事でも奢ってくれれば相殺ということで」
この人、なんて妖しいんだろう……
千葉詩織は目を伏せた。彼女は他人に借りを作るのが好きではなかった。携帯を受け取り、彼女は自分の電話番号を残した。
「これで行ってもいい?」
千葉詩織は携帯を彼に返し、その美しすぎる狐のような目に感情らしきものは一切なかった。
「もちろん」
男の声は怠惰で磁性があり、笑みを含んでいて、魅惑的で心を乱すものだった。
「またね、お嬢さん」
千葉詩織が遠くまで去った後、秦野蓮はようやく視線を戻し、薄い唇に浅い笑みを浮かべ、かなり気分が良さそうだった。
すべてを目撃していた森田健一が暗がりから姿を現し、思わず不思議そうに口を開いた。「蓮様、さっきの少女と芝居を演じる必要なんてなかったのに……」
蓮様の立場を考えれば、あの少女を守ろうと思えば、S組の連中は逆らおうなんて考えもしなかっただろう。
そして蓮様は重度の潔癖症ではなかったのか?
どうしてさっきの少女があんなに近づくことを許したのだろう?
森田健一が理解に苦しんでいる時、秦野蓮の怠惰で笑みを含んだ声がゆっくりと響いた。
「ああ、わざとだよ」
森田は衝撃の表情を浮かべた。
……
「ボス、大丈夫か?」
千葉詩織が東京園の門を出るとすぐに、江口健太は車から飛び出して、彼女をじっくりと観察し、怪我がないことを確認してようやく安堵のため息をついた。
「ボスは無事で本当によかった。俺はもう仲間を呼んでボスを救出する準備をしてたんだぞ!うぅ、ボス、全部俺のせいだった。場所を間違えて……」
「二度とないようにね」
江口健太は急いで力強く頷いた。「ボス、絶対に次はないようにするよ!」
千葉詩織は何も言わず、ポケットからチップを取り出して彼に投げた。
「これを研究室に持っていって、研究を続けさせて」
江口健太はあわてて小さなチップをキャッチした。この小さな一つが数十億円の価値があるのだから、大切に扱わないわけにはいかない。
「ボス、今回の研究には参加しないのか?研究所のジジイたちがずっとボスに会いたいって言ってるぞ。ボスに一度アドバイスしてほしいらしい。それにボスが研究に参加すれば、成功率はもっと高くなるはずだ」
「時間があれば研究室に顔を出すわ」千葉詩織はかなり冷淡に答え、そのとき彼女の携帯に友達追加の確認メッセージが届いた。
彼女の私用電話番号を知っている人は数えるほどしかいない。今LINEの友達追加をしてきた人が誰かは言うまでもない。