菜穂の顔色が一瞬にして青ざめた。
終わった。
「菜穂、戻ってくるの?」
創の声。
「ママ……」
菜穂はとっさに携帯を奪い取り、電話を切った。
彰仁は眉をひそめた。
彼は聞いてしまった。
電話の向こうで誰かが「ママ」と呼んだのを。
彼の視線がまっすぐ菜穂に注がれ、深い瞳が危険げに細められた。菜穂の緊張した様子を見て、彼の心に疑念が湧き上がった。
「ママ?お前のことを?」
菜穂は携帯をきつく握りしめ、震える自分を落ち着かせようとした。「あれは私の友達の子どもよ。友達を呼んでたの」
「友達の子ども」彰仁はその言葉を冷たく噛みしめた。「じゃあなぜ緊張している?」
「どこの目で私が緊張してるって見たの?」
「ふん」
彰仁は冷笑した。菜穂がいくら呼吸や表情をコントロールしていても、彼女の目つきや行動が彼女を裏切っていた。
「お前は嘘をついている。菜穂、お前は嘘をつくとき目線が泳ぐ癖があるのを知ってるか?」
「彰仁、あなたは私を尋問してるの?」
「そうだ、尋問している。俺は知りたい。あの時、妊娠七ヶ月で中絶手術を受けに病院へ行ったと言ったが、いったいどの医者がそんな手術を認めた?それとも、あの子は実際には中絶せず、Y国で産み、Y国で育てているのか?さっき『ママ』と呼んだ子供は、あの時の子供なのか?」
彰仁が投げかける疑問の一つ一つが菜穂の心臓をドキドキさせた。
彼の推測は全て正しかった。
菜穂は奥歯を噛みしめ、彰仁の目をまっすぐ見つめた。「違うわ。あの時の子供は中絶したわ。何を疑ってるの?あなたの子供を私が産むと思う?」
彰仁はずっと菜穂が本当に子供を中絶したのか疑っていた。
結局、当時の子供はもう七ヶ月だった。あと一ヶ月ちょっとで出産だった。
彼女は本当に子供を諦められたのか?
それに、そんな大きな子供を、普通の病院では中絶に同意しないだろう。
彼はもともと疑いを持っていたが、菜穂の調査結果ではこの数年ずっと一人で暮らしていたことが分かり、少し疑いが晴れてきたところだった。しかし、さっきの電話で彼の疑惑が再燃した。
龍之介ちゃん。
ママ。
彰仁は考えれば考えるほど、あの時彼女は子供を中絶していなかったのではないかと思えてきた。
「認めないなら、この電話にかけ直して証明してみろ」
菜穂の指が強張った。
「怖いのか?当たってるのか?」
菜穂は唇を噛み締めた。彰仁の目はただ彼女を見つめ、その瞳には疑いがいっぱいだった。
彼女には分かっていた。この電話をかけ直さなければ、それは彰仁の疑いが正しいことを認めることになる。
菜穂は携帯を握りしめた。
彼女には選択肢がなかった。賭けるしかなかった。
「いいわ、疑ってるの?かけるわ」
携帯を開き、菜穂は電話をかけ直した。
彰仁はそのまま彼女を見つめ、彼女の表情から何かを読み取ろうとしていた。
電話はすぐに繋がり、静かな車内に女性の声が響いた。
「もしもし、菜穂、まだ来ないの?龍之介がもう待ちくたびれてるわよ」
菜穂の心臓がドキッと跳ねた。
「菜穂おばさん、早く来て、僕とママは待ってるよ」
彰仁は唇を引き締めながら聞いていた。さっきの子供の声だった。
菜穂はすぐに察して言った。「龍之介ちゃん、ごめんね。おばさんこっちでちょっと用事ができちゃって、今夜は遊びに行けなくなったの」
「どうして?菜穂おばさん、今日来て遊んでくれるって約束したじゃん」
「おばさんこちらで少し問題が起きて、片付けなきゃいけないの」
「どんな問題?」
創も尋ねた。「菜穂、どうしたの?何かあったの?手伝おうか?」
「大丈夫よ、心配しないで」
「そっか、じゃあ菜穂おばさんはいつ僕と遊んでくれるの?」
「二、三日したら、おばさんまた遊びに行くね」
「うん、おばさん、またね」
「またね」菜穂は電話を切った。
彰仁は眉をしかめた。
電話の中の子供は菜穂を「おばさん」と呼んでいた。つまり、さっきの「ママ」は電話の向こうの女性に対して言ったものだったのか。自分の疑いは間違っていたのか?
菜穂は携帯を持ちながら、心の中でほっと息をついた。彰仁を見て言った。「まだ疑うなら、自分で調べてみればいいわ」
彰仁は何も言わなかったが、菜穂は彼の周りの空気が一気に冷たくなるのを感じた。
菜穂は心の中で安堵した。幸い、彼らの息はぴったり合っていた。そうでなければ、今夜彰仁に全てがバレていただろう。
一方、三人の子供たちと創もみんな安堵のため息をついた。
菜穂がこんなに長く戻ってこないこと、電話に出ても何も言わずに切ったこと——絶対に何か問題が起きているに違いない。だから再び電話がかかってきたとき、創は慎重に最初の一言で探りを入れた。
案の定、予想通りの事態だった。
「ママは大丈夫?ママは悪いパパに捕まってるの?」と穂は心配そうに聞いた。
創の顔にも心配の色が浮かんでいた。明らかに、菜穂が子供の身分を隠すのは彰仁に会ったときだけだ。
つまり、菜穂は今、彰仁のもとにいるに違いない。
「ママを助けに行くよ」龍之介は真剣な顔で、小さなリュックを持って出かけようとした。
「私も行く」穂もすぐについていき、小さな体に気合いを入れた。
創は両手で二人の子供をつかまえた。「どこに行くの?君たちはどこにも行けないよ。君たちのママが一番恐れているのは、君たちが見つかることだ。自分から相手の手に飛び込むつもりなの?」
「でもママは悪いパパに連れていかれたんだよ。ママは危険だよ」穂は焦っていた。
「創ママを信じて。ママは今、危険な状態じゃないよ。彰仁がママに何かするはずがない。君たちが彰仁に見つからなければ、ママは安心できる」
「でも穂はママが心配」穂の目が赤くなり、今にも泣きそうだった。
創はすぐに慰めた。「泣かないで、穂。ママはさっき心配しないでって言ったでしょ?ママはきっと何か方法を持ってるよ。まずはお兄ちゃんたちと一緒にここで大人しくしていよう、いい?」
「でもママが…」
文彦が近づき、穂を抱きしめた。「穂、いい子にして。ママの言うことを聞いて、ここでおとなしくしよう。そうしないとママが心配するよ。穂はママを心配させたくないでしょ?」
「穂はそんなことしたくない」
「だから穂はいい子にしなきゃ」
穂は赤い目で皆を見回し、一生懸命に涙をぬぐった。「うん、穂はいい子だよ」
文彦は龍之介を見た。「龍之介は?」
龍之介もしぶしぶとリュックを下ろした。「龍之介もいい子にする」
龍之介と穂が説得され、この状況で創は三人の面倒を見るという重責を担っていた。菜穂の信頼を裏切るわけにはいかず、まずは彼らを部屋に戻して寝かせようとした。
三人の子供たちも彼女に手間をかけさせず、とても理解があるように自分のベッドに戻って横になった。
創は心配しながらもそっと彼らの部屋のドアを閉め、携帯を取り出して菜穂に電話をかけ、何が起きたのか聞こうとした。
しかし、菜穂の電話はもう繋がらなくなっていた。
創は心配だったが、何もできなかった。彼女はよく分かっていた。菜穂が本当に恐れているのは子供たちが見つかることだ。だから創にとって一番大事なのは、この三人の子供たちをしっかり見守ることだった。
創はリビングの明かりを消し、自分の部屋に戻った。
三十分後。
暗闇の中。
すべてが静かだった。
小さな影が静かに部屋から抜け出し、暗闇の中で、音を立てずに玄関のドアを開けた。
小さな影はするりとドアの隙間から滑り出た。
そっとドアを閉め、誰にも気づかれず、小さな子供は安堵の表情で懐中電灯をつけた。
前方に二つの影が振り返った。