夜の森は、湿った土と草の匂いで満ちていた。
焚き火が弾ける音だけが響く静寂の中、
拳志は干し肉をくわえたまま、木の枝をへし折った。
「……おるな。はっきりこっち見とるわ」
アリシアが魔術式の準備を始め、レインが木陰に身を寄せる。
──そのとき。
「お前ら、人間か?」
低く、しわがれた声が、森の闇から響いた。
現れたのは、獣の耳と尻尾を持つ青年。
銀色の毛並みに、片方だけ裂けた耳。
鋭い赤い瞳が、焚き火を越えて拳志を捉えていた。
「……獣人?」
アリシアが警戒の構えを取るが、拳志は一歩、前に出た。
「なあ。お前は喧嘩売りに来たんか?」
獣人の青年は、薄く笑った。
「珍しいな。売られる前に買うやつ」
「こっちは客やのに、睨まれてるしな。そら買うわ」
その瞬間、風が割れた。
獣人の爪が、音もなく拳志の鼻先をかすめる。
直後、拳志の拳が反射で突き出すが空を切る。
気づけば相手は、背後に回っていた。
「遅いな、人間」
「速いな、トカゲ」
「……オオカミだ」
アリシアとレインが声を上げる前に、二人はぶつかっていた。
獣人の動きは、獣のそれだった。
地を這い、刃のように滑る。
拳志の拳がうなる。
空を裂くような一撃。
しかし、獣人の身が風のようにかわす。
その一撃をかわした流れのまま、獣人の上段蹴りが叩き込まれる。
拳志は両腕で受け止め、地面に深い跡が刻まれた。
「ちっ……!」
反撃に腹へ拳を突き込むが、獣人は身をひねって紙一重でかわす。
代わりに閃く爪が、拳志の頬を裂いた。
拳志は前傾姿勢のまま、相手を睨む。
(……チョロチョロしやがって。けど──速さだけちゃうな)
獣人もまた、鋭い眼光で拳志を見据えていた。
(……この拳、当たれば終わる。見切れなければ、俺の負けだな)
二人の距離が、少しずつ詰まる。
空気が、熱を帯びていく。
拳と爪、膝と膝、肘と肘。
骨がぶつかり、肉が揺れる音が続く。
頭突きすら交え、ゴツゴツと鈍い手応えが互いの身体を叩き合う。
拳と爪がぶつかり合い、火花のような音が夜を裂く。
地面がえぐれ、風圧で焚き火の炎が揺らいだ。
アリシアは思わず息を呑んだ。
「……なんなの、あの二人……」
レインも震える声で答える。
「速すぎる……あの獣人も、拳志さんも……怪物だ……」
二人の目には、拳志とガルドがもはや“異常な存在”にしか見えていなかった。
戦局は拮抗しどちらも下がらない。
その時、レインが咄嗟に符を描こうとする。
「封印魔法──!」
「手ぇ出すなッ!」
怒声が夜を裂いた。
拳志の一喝に、レインの手が止まる。
アリシアも結界を張ろうとした指を握りしめ、歯を食いしばった。
「これはタイマンや。邪魔すんな」
二人の視線だけが交差する。
血の匂いと汗の熱気が、焚き火の明かりを歪ませた。
互いの呼吸が荒く、今にも噛みつく獣同士の距離。
「……重そうな拳だな。くらったら、タダじゃすまない」
「お前、何発避けんねん。チョロチョロしやがって……!」
「だったら当ててみろ」
獣人が踏み込んだ。
その一瞬。
拳志は、わざと腹を開いた。
「拳志ッ!!」
アリシアの声にも、拳志は笑うだけだった。
「……思ったより、ええ動きやな」
獣人の蹴りが腹に突き刺さる。
だが──それを、拳志は掴んでいた。
「……獣のくせに、器用なことしよるやん」
獣人の瞳が、わずかに揺れる。
「しま──」
「──どつくで」
拳志の拳が、ゆっくりと、構えられる。
一瞬、風が止まったように感じた。
レインが息を呑む。
アリシアも、じっと拳志を見つめていた。
──空気が、静まった。
次の瞬間。
空気が爆ぜるほどの一撃が、真正面から獣人を捉えた。
そのまま地面を滑り、木をなぎ倒し、倒れる獣人。
アリシアが駆け寄りそうになるが──拳志が手をかざす。
「まだ終わってへん」
土煙の中から、獣人がゆっくりと立ち上がる。
口元から血を流しながら、ニヤリと笑う。
「……っぐ……クソ……まともに食らったのは久しぶりだ。……人間じゃねえな、あんた」
「お前もや。避けるだけやと思ったら、ええもん持っとるやんけ」
一瞬だけ、沈黙。
そして──獣人が背を向けた。
「いい土産になった。あんたの拳、忘れられそうにねぇ」
「名前ぐらい、聞いとこか」
「ガルド=フェンリス。獣人族の……まあ、いろいろあってな。お前らには関係ねぇよ」
アリシアが小さく目を見開くが、口には出さなかった。
ガルドは、夜の森へと歩きながら言った。
「また会おう。次は──ただの挨拶じゃ済まないかもな」
「おう。今度はもっとええ喧嘩しよな」
闇に消える背に、アリシアが問いかけた。
「あなた、どうして私たちを襲わなかったの?」
その答えは、闇の中から返ってきた。
「獣人には獣人の誇りがある。それだけだ」
静寂。
拳志は、どさっと地面に座り込んだ。
ゆっくりと息を吐く。
「ふぅー、やっと当たったわ。なかなかのスピードやったな」
レインが駆け寄る。
「お腹、蹴られてましたよね!? 大丈夫ですか!?」
「んー……腹筋割れたかも。ちょっとヒリヒリすんなぁ」
「それ、割れたっていうか打撲ですよ!!!」
アリシアが笑いながら、ぽつりと呟いた。
「……本当に、誰が相手でも……止まらないのね、あんたは」
拳志は空を見上げた。
しばらく、何も言わずにいた。
焚き火がパチ、と弾ける音が響く中──
(あいつとのタイマン思い出すな……)
拳志は、浮かぶ月をじっと見上げながら、静かに言った。
「この世界に来て、初めてや。……あいつとは、またやりたいな」