長谷川彰人(ながだがわ しょうにん)は、実はずっと前からそこにいた。外に停めた黒い高級車の中で、長谷川グループの資料に目を通していたのだ。
先ほど詩織が店に入っていくのも見えていた。彼はその姿を見たとき、ほんの少しだけ――羨ましいと感じた。あんなにも生き生きとした若者。自分にはとうの昔に失われた光。
本来なら中へ入るつもりなどなかった。
だが書類の合間、ふと顔を上げた瞬間――店内での出来事が視界に飛び込んできた。
一瞬だけ考えた末に、進一はファイルを閉じ、ドアを開けた。
「……やれやれ。」
自分でも理由は分からない。
ただ――あの明るい子が、誰かに侮られるのを黙って見ていられなかった。
外から見れば、一目で分かる構図だ。「高慢な客」と「見下された少女」。
この手の光景、特に宝石店では日常茶飯事だ。
彰人は静かにカウンターに近づくと、販売員に軽く頷き、
詩織と紅葉の方へ視線を向けた。「お二人とも、何かお探しでしょうか?」彰人にとって、こういう出だしは対立を和らげるのに効果的だと思われた。
冷静で落ち着いた声。
だが詩織にとっての第一印象は――「愛想ゼロの接客業不向き男」。
「いいえ、何も」詩織は軽く首を振った。
「あるわよ!」紅葉は目を輝かせ、彰人を見つめるなり身を乗り出した。
「あなた、電話番号は?今夜、空いてる?ロマンチックなデートでもどう?」
……早速、魅了されたようだ。
詩織は額を押さえた。
思い出した――この時代、まさに「クール系男子ブーム」の真っ只中。
無表情でスーツの似合う男なんて、女の子にとってはまさに「現実の王子様」なのだ。
ましてや目の前のこの男、冷酷というよりも「冷徹界の最上級」。
紅葉が食いつかない方がおかしい。
……とはいえ、詩織もつい目で追ってしまう。
確かに、それだけの価値はある。整った顔立ち、滲む知性、滅多に笑わない唇。黒いスーツに白いシャツが似合いすぎて、まるで高級雑誌のモデルのようだった。
――ただし、少し若すぎる。
社長?どう見ても金のスプーンをくわえて生まれたお坊ちゃん。
詩織(24歳の中身)視点で言うなら、「世間知らずの御曹司」。
けれど17歳の外見で言うなら、ただ一言――「イケメンすぎて、死ぬ」。
「申し訳ありませんが、勤務中は個人的な関係のお話はご遠慮いただいております」
まるで教科書を朗読するような口調。紅葉のアピールを完全スルー。
「へぇ、そう?じゃ、仕事が終わったら話そうか」
紅葉の鉄面皮っぷりには誰も敵わない。恋のためなら羞恥など存在しないらしい。
彰人はため息をつき、「リサ、店は任せた」と短く言い残した。
「私は上で書類を片付けてくる」――逃げた。いや、正確には最善の戦略的撤退。
彰人は賢明だ。そうでなければ、若くして長谷川グループの大部分の子会社を掌握することはできなかっただろう。この程度のことが分からなければ、彼は今日の地位にいる資格はなかっただろう。
「はい、社長」販売員は笑いをこらえながら深々とお辞儀した。
詩織はそのやり取りを見て苦笑するしかなかった。
紅葉、ほんとうに……最強だ。
言葉にできない。たぶん、こういうのを「無力感」って言うんだろう。
だが、頭の片隅では冷静だった。紅葉がいる限り、この店でじっくり玉を見て回るなんて無理な話だ。今日は一旦帰って、また改めて来よう。
それに、自分に異能があるのはもう確定だ。
問題は、それが何なのか。玉に触れると白い光の粒が浮かぶ。けれど、それを見えているのは自分だけ――。
最後にもう一度紅葉の方をちらりと見て、詩織は気づかれぬように後ずさる。
今が退きどき。逃げるなら今しかない。
幸いにも紅葉の注意は完全に彰人に釘づけだ。
詩織が出口に向かって歩いても、気づく気配すらない。
唯一、その動きを目で追っていたのは彰人だけだった。
――せっかく助けてやろうと思ったのに。少女が何も言わずに立ち去る姿を見て、彼の胸にはわずかな不快が残った。
だが、それも自分の早とちりだ。
紅葉をようやくまいた彰人は、オフィスに戻るとドアを閉めて鍵をかけた。
「……積極的な女は珍しくないが、あんなに幼稚なのは初めてだな」苦笑が漏れる。
仕草も、表情も、全部が「誘惑」というより「悪ふざけ」にしか見えなかった。
彰人は額に手を当て、小さく息を吐いた。
どうにも今日はおかしい。
普段なら微動だにしない心が、やけに落ち着かない。
十八歳から長谷川グループの仕事に関わり、もう二年。
幼い頃から叩き込まれた教え――「感情は顔に出すな」「余計なことに首を突っ込むな」。
それが彰人の基本姿勢だった。
だというのに、今日。
見知らぬ少女ひとりのために、思わず動いてしまった。
「……らしくない」
首を振って思考を断ち切る。理解できないことは考えない。
今夜はパーティーがある。まずは書類を片付けなければ。
けれど、彼の胸の奥ではすでに答えが出ていた。
――羨ましかったのだ。
唯一の後継者として、常に重圧と責任を背負ってきた彼には、
詩織のあの眩しい生命力が、あまりにもまぶしく見えた。
人は、自分にないものを持つ者に惹かれる。
ただそれだけのこと。理由なんて、いらない。
彰人は窓際のデスクに腰を下ろし、ふと外を眺めた。
そのとき、偶然――通りのバス停で、詩織の姿を見つけた。
どうやら彼女の「試練の日」はまだ続くらしい。
紅葉から逃げ切ったと思った矢先、今度は別の「敵」が待っていた。
「夏目詩織、ちょうど良かった!探す手間が省けたわ。宿題、できてるでしょうね?」
……頭が痛い。ほんとに痛い。
目の前で腕を組むその姿に、詩織は思わず天を仰いだ。
よりによって今日、なんでこの二人なのよ。
紅葉に続いて近藤天海(こんどう あまうみ)。きっと神様はわたしの人生をコメディにしたいんだわ。
近藤天海――高校時代、彼女は詩織の後ろの席だった。
紅葉と同じく、ある意味「支配者」。
ただし、やり方は少し違う。彼女は暴言を吐くタイプではなく、いつも笑顔で「お願い」してきた。「宿題、やっといてね?」――その『お願い』が、毎回命令にしか聞こえなかったけど。
ほとんどの課題は詩織が書いた。それなのに、なぜか成績はいつも彼女の方が上。
頭を抱えながらも、詩織の心にはわずかな懐かしさがよぎった。
大学受験が終わってから、一度も会っていない。
噂では有名大学に進学して、その後は海外留学までしたらしい。
「宿題?破ったわよ!」
それは、今の彼女だからこそ言える、まっすぐな一言だった。