教室に入った瞬間、詩織のこめかみがピクッと跳ねた。目の前にいるのは、あの噂好きで恋バナにしか興味のない紅葉。しかも話を盛る才能まで持ち合わせている、ある意味「人災」。――ああ、神様って本当に不公平だ。どうしてこんな生き物を作ってしまったのだろう。
「夏目詩織、そんなにお金持ちぶらなくてもいいんじゃない?」
詩織の姿を見つけた瞬間、紅葉のテンションが跳ね上がった。軽蔑の鼻息をひとつついて、周りの女子たちに向かって大声で話し出す。
「聞いてよみんな! 昨日ね、私、立川ジュエリーで彼女を見たの!お金もないくせに店員さんに指輪見せてって言ってさ、最後は店長と仲良く話してたのよ?恥ずかしくないのかしら〜」
「やだ〜!うちのクラスにそんな子いたの?」
「ねぇ、『万年ガリ勉』ってあだ名ついてるけど、実は万年風俗女の方が合ってるんじゃない?」
「風俗女」――古風な言葉で、昔の遊女を指す隠語。つまり紅葉の言い方では、「今どきの水商売女」ってことになる。
「うそ〜、あの子ってもっと真面目そうに見えるけど?」
紅葉玉の話を聞いて、何人かの女子学生は信じられないという顔をした。
「ホント、見た目じゃ分かんないね」自分の爪を眺めながら、紅葉は嫌そうな顔をした。
「本当に見た目じゃわからないね」
「うんうん、近寄らない方がいいかも」
「ねぇ……もしかして、もう『あれ』とか……男と、さ……?」
「あるかもね〜」
――ああもう、頭痛い。
詩織は机に鞄を置きながら、心の中で深いため息をついた。
本当は今日こそクラスメイトと仲良くやっていこうと思ってたのに。もう、無理だ。
こんな噂が広まってる人と友達になりたい人なんて、いるわけない。
紅葉に対しては、もう「幼稚」とかいうレベルじゃなかった。
「バカ」――それが詩織の率直な感想だった。
くだらない話を作って人のことを貶める、そんなことをして恥ずかしくないのだろうか。
「誰が何をしたか、本人が一番分かってるでしょ」
詩織は冷静に言い放ち、教科書を机に置いたまま紅葉を見据えた。「そんな暇があるなら勉強でもしてなさいよ。家が金持ちでも、あなた自身は何も持ってないでしょ。親の金がなきゃ、ただの誰にもいられない落ちこぼれよ」
――本当は、こんな奴に言葉を使うだけ無駄。でも、黙っていたらもっと無駄だ。
「なっ……夏目詩織、よくもそんな口を!信じられない!学長に言ってあんたを退学させてやる!ウチのパパならそれくらい簡単なんだから!」
紅葉の父親は地元の有名な実業家で、この剛毅高校にも資金を出している。
学長が逆らえないのも、あり得る話だった。
「どうぞご自由に。怖くもなんともないから」
――あっ、やばい。言っちゃった。
頭では止めようと思ったのに、口が勝手に動いていた。
七年も人生をやり直した大人の精神を持ちながら、十七歳の子と口喧嘩してどうする。ただの悪口じゃ死なないのに、何をムキになってるんだろう、自分……。
ああもう、この口が災いだわ。
前世で会社にいた頃も、権力を振りかざす連中には散々苦しめられた。
そのせいで、今でもそういうタイプを見ると反射的に反発してしまう。
自分を平手打ちしたい気分だが、一度言った言葉は取り消せない。
「ふん、上等じゃない!夏目詩織、覚えてなさい!絶対にこの学校から追い出してやるんだから!」紅葉の怒りはもう限界。今までは何を言っても詩織が黙っていたのに、今日は反撃されたのだ。引き下がったら、自分のプライドが許さない。
――はい、これでもう敵認定。完全にアウト。
詩織は諦めたように口を閉じた。
その時、教室のドアが開き、近藤天海が入ってきた。
彼女の目に映ったのは、紅葉が怒りで真っ赤になって詩織を睨みつけている光景。一方の詩織はというと、平然と本を開いて読みふけっている。教室中の生徒たちは、息を潜めたように静まり返っていた。
「何これ、どうしたの?」
天海は隣の席を小突きながら小声で尋ねる。
「別に……紅葉と夏目が揉めただけ。」詩織を一瞥して、天海の隣席は小声で言った。
「ふーん……」
天海はそのまま無言で詩織の背中を見つめた。
――なんだか、背中がぞくっとする。誰かの視線を、確かに感じた。……間違いなく、あいつだ。
――入学初日で、二人の「問題児」を同時に敵に回すとか。さすがに、自分でも死亡フラグ立てすぎじゃない?
一日中、誰も話しかけてこなかった。先生だけが、「体調はもう大丈夫?」と気にかけてくれるだけ。他のクラスメイトは、見事なまでに詩織の存在を「透明化」していた。
ようやく放課後のチャイムが鳴る。詩織は部活にも行かず、夜の自習もパスして、教師に一言断って帰ることにした。
あんな雰囲気の中で勉強なんて、無理に決まってる。
でも、一日授業を受けてみて――悪いことばかりじゃなかった。
忘れていた知識が少しずつ戻ってきている。まだ完全には理解できていない部分もあるけど、努力を続ければきっと大丈夫。
「記憶は少しずつ積み重ねるもの。焦らない、焦らない」
そう自分に言い聞かせながら帰り道を歩く。
今日はあまり夜更かししないで、ちゃんと寝よう。
体が資本だ。体を壊したら、どんな勉強も意味がない。
剛毅高校の外に出るには、少し薄暗い裏道を通らなければならない。この場所、昔はお墓だったらしい。地元では「墓地の上に学校を建てると、霊気を鎮めて学問が栄える」と言われているとか。
――ま、迷信だと思うけど。
夜はほとんどの生徒が校内で自習しているため、この時間に外に出る人は少ない。
食堂も完備されているから、帰宅する理由もあまりないのだ。
だからこそ――この道を歩いているのは、夏目詩織ひとりだけだった。夕方の風が、少し冷たい。
「おや、夏目詩織じゃないか。ずいぶん早い下校だねぇ?」
不意に背後から声をかけられ、詩織は足を止めた。
「近藤天海、何の用?」
振り返って、息が止まる。
そこにいたのは、確かに近藤天海。――だが、その隣にいたのは、五人の不良男子。
金髪、赤髪、ピンク、青、そして銀。まるでクレヨンの見本帳みたいな頭をした彼らが、ズボンのポケットに手を突っ込みながら、にやにやと笑っていた。
完全に、場違いな空気。
「やばい、この展開……普通にホラーじゃない?」
詩織の背筋に、ぞくりと寒気が走った――。