朝、村を出る準備をしていると、診療所で会った人たちが見送りに集まってきた。
「助かったよ、あんたら。ほんまに助かった」
「子どもが笑って寝た。久しぶりだね」
「次に来たら、祭りのパン焼いて待ってるからな!」と誰かが手を振る。年寄りが涙を拭き、若い母親が何度も頭を下げる。
その輪の外から、小さな声も混じった。
「……でも、やっぱり薬は怖い」
「早すぎる。人の手で、そんな」
沈んだ視線が一瞬だけルークに触れて、すぐ逸れる。
リリィが間に入った。
「飲み方は紙に書きました。量は守ってくださいね。もし変な症状が出たら、水を多めに飲ませて、すぐ中断を」
「分かってる。ありがとな、聖女さ……いや、リリィちゃん」
気まずさと礼が同居した空気。ルークは何も言わず、荷を背負い直した。
村の外れで老婆が近づいた。
「お若いの」
「はい」
「神様や思うた。……いや、悪魔かもしれん、て言うやつもおるわ」
老婆は自分で首を振って続けた。
「どっちでもええ。生きた。ありがとう」
ルークは短く会釈した。それだけだった。
出発してしばらく、風の音だけが続く。やがて、リリィが横を向いた。
「次は、もっと上手くやれますね。私も練習します」
「……ああ」
ルークは歩調を上げた。背中にさっきの声がまだ残っている。
王都に近づくほど、道は賑やかになった。荷馬車が軋み、行商人が声を張る。
皮をまとった獣人が背の籠を揺らし、空では輸送獣が影を落とす。
路肩に屋台が並び、香辛料の匂いが鼻をくすぐる。
「熱い肉串どうだ! 朝でもいけるぞ!」
「近づくな、空飛ぶ馬は機嫌が悪い!」
係の男が叫ぶと、翼のある馬が鼻を鳴らした。
リリィが目を輝かせる。
「王都は初めてですか?」
「……ああ。噂でしか」
「図書館も大聖堂も、薬草園もあります。薬草園の温室は、季節に関係なく咲いてるんです。きっと楽しいです」
ルークは息を吐く。
「観光か……俺には縁がなさそうだ」
「大丈夫。私が連れて行きます」
リリィが胸を張る。ルークは口の端だけ、少し上げた。
人波の向こうで、黒い外套の影がふとこちらを見た。視線が合う前に、人混みに紛れて消える。
白い外壁が見えてきた。高い尖塔。
壁に刻まれた魔導の紋が淡く光っている。
門の上では魔法騎士が巡回していて、杖の先が時々光った。
門前は行列だ。旅人、商人、兵士、貴族の馬車。順番を待つ間にも、王都のざわめきが波のように押し寄せてくる。
「次」
鎧の門番が手を上げる。鋭い目つきだが、声は事務的だった。
「身分証は?」
リリィが小さな革袋から銀の板を出す。
「聖女見習いの証です」
門番の目が変わった。
「……聖堂の印。失礼しました。同行者は?」
「薬師です」
ルークが前に出る。腰の薬瓶がかすかに鳴った。
門番の視線が瓶に落ちる。列の後ろから囁きが走った。
「薬師だってよ」
「爆発物じゃないだろうな」
「去年、門で怪鳥を焼いた薬師がいたろ。壁が半月黒かったやつだ」
「やめろ、縁起でもねえ」
リリィがすかさず言葉を重ねる。
「彼は、私が信じる薬師です」
門番はルークとリリィを見比べた。少し間を置いて、頷く。
「……通っていい。ただし、王都で活動するなら登録が必要だ。薬師ギルドで試験を受けなさい」
「分かりました」
ルークが答えると、門番は印を押した札を渡してきた.
門をくぐると、空気が変わった。石畳の道。両脇の建物は二階三階が連なり、木の窓から色とりどりの布が揺れる。
香辛料、パン、油の匂い。人の声が重なって、街の音になる。
「見てください、あれが大聖堂です」
リリィが遠くの尖塔を指した。
「薬草園はあの区画。午后に行きましょうか」
「試験が先だ」
「試験の後です」
リリィは笑って、歩を速める。
途中、薬屋の前でルークの足が止まった。店先の瓶に目が吸い寄せられる。
「……濾過が甘い。沈殿の層が二本ある」
「ルークさん、顔が怖いです!」
リリィが小声で肘をついた。
「今は通り過ぎましょう。あとで来て、ちゃんと見ればいいです」
「……分かったよ」
ギルドの前、庇の影に黒衣の影が立っていた。こちらに一度だけ視線を寄越し、柱の陰へ消える。
やがて、薬師ギルドの建物が見えた。白い石と濃い木が組み合わさった堂々とした建物。
扉を開けると、薬草の香りが流れてくる。磨かれた床。壁には薬草の図が飾られ、ガラスのケースに古い器具が並んでいた。
受付の前に列ができている。順番が来た。
「試験を受けたい」
ルークが言うと、受付嬢はまっすぐこちらを見た。落ち着いた目だが、柔らかさは少ない。
「危険薬を作らないと誓えますか」
短く、はっきりとした口調だった。
ルークは数秒だけ黙った。その間に、リリィが一歩出る。
「彼は人を救うために薬を作ります。私が保証します」
受付嬢はリリィに一礼し、ルークに視線を戻す。
「では、受験料を。規約は読んでください」
紙束と羽根ペンが差し出される。ルークは規約に目を通し、署名した。
「試験室へどうぞ。制限時間は一刻。課題は癒し薬の調合。支給する薬草のみ使用可能。失敗すれば即失格です」
「分かりました」
厚い扉の向こうは広い室内だった。作業台が十ほど並び、それぞれに器具が揃っている。
火口、ビーカー、秤、乳鉢。棚には支給用の薬草が箱ごとに置かれていた。
受験者が既に何人かいる。学者風の男が眼鏡を押し上げ、商人崩れの風の女が手を擦っている。フードの影から視線だけが光る男もいた。
試験官が入ってくる。灰色の外套。無駄な言葉はない。
「課題の薬草は三種。銀葉草、赤根花、青晶茸。癒し薬を作れ。品質は官能検査と簡易魔導測定で判定する。時間は今から一刻。始め」
砂時計が回された。静けさが落ちる。道具の音だけが鳴り始めた。
ルークはまず薬草の箱を開ける。銀色の細い葉。根が赤い花。青く透ける小さな茸。手袋をはめ、一本ずつ状態を確かめる。
「銀葉草は水分が少し飛びすぎ。煎じる温度を少し下げる」
独り言が小さく落ちる。
火をつける。鍋に少量の水。銀葉草をほぐして入れ、ごく弱火で煮る。
赤根花は根の皮を均一に剥ぎ、刻みを揃える。
青晶茸は石皿に広げ、薄く均一に熱を当てる――温度は一度もぶれない。毒気を逃がさず、触媒化だけを正確に進める。
斜め後ろから、ぽつりと漏れる。
「そんなやり方……」
多くは煎じてから触媒を入れる。ルークは逆だ。だが手は迷わない。
鍋の縁で均一な泡が立つ。音は静かで一定。
ルークは泡の大きさと速さで温度を読み、赤根花を三回に分けて投入する。赤みが広がりすぎず、液は澄んだまま。
青晶茸は半透明の芯だけを残し、乳鉢で微粒に砕く。
所作は無駄がない。どの器も静かに応える。
試験官が一度だけ足を止め、短く言う。
「……興味深い手法だな」
砂時計の砂が落ちる音だけが続いた。隣の鍋からは焦げの匂いが立ち、別の卓では泡が荒れている。小さな嘆息がいくつか。
ルークの鍋だけが、最後まで音を乱さない。
青晶茸を投入。濁りが一瞬だけ広がり、綺麗に消える。表面の泡が揃ったところで火を止める。
器を水盆でゆっくり冷やし、瓶に移して密栓。光に透かす。澄んだ琥珀色。底に沈殿はない。
周りから小さなざわめきが起きた。
「色が綺麗すぎる……」
「触媒を先に?」
「終了」
試験官の声が響き、砂時計の最後の砂が落ちた。器具が止まり、受験者がそれぞれの瓶を提出する。
試験官が順に検査していく。匂い、粘度、光の通り。簡易魔導測定器に一滴落とすと、淡い光が灯る。効能の目安になる。
ルークの瓶の番になった。試験官は香りを嗅ぎ、粘度を指で確かめ、測定器に一滴垂らす。器が強く光り、静かに安定した。
「……見事だ。効能は申し分ない」
そして一拍置いて、淡々と続ける。
「だが、配合が常識外れだ。危うい手だ。扱いを誤れば毒霧が出る」
周囲がまたざわつく。
「やっぱり危ねえやり方だ」
「でも効いてる……なんだあれ」
試験官は記録に何かを書き、顔を上げた。
「結果を掲示する。待て」
受験者が壁際に寄る。しばらくして、紙が打ち出され、名前と結果が貼られた。合格、合格、失格……と並ぶ中に、ルークの名があった。
「合格。活動条件付き」
紙の横に小さな注釈もある。
「王都監視下での活動を許可。危険薬調合の兆しが見られた場合、即時停止」
リリィがぱっと顔を明るくした。
「やりました!」
ルークは紙を見つめ、短く答える。
「……まだ入口に立っただけだ」
「入口が開きました。大事です」
試験官が合格者に近づき、登録の手続きを説明する。
「活動区域、報告義務、販売上限……」
ルークはうなずき、必要な書類に署名した。
「以上だ。次」
試験官はくるりと背を向け、別の受験者に声をかけに行った。
ギルドを出ると、夕方の光が街を橙に染めていた。人の流れはまだ多い。
何かの楽団が通りを演奏しながら進んでいく。屋台の男が鍋を振って、香ばしい匂いを漂わせた。
「肉串、どうです? 今なら一本おまけ!」
リリィが財布を握る。
「一本ください。……二本?」
「二本で三本にしとくよ、お姉さん」
「やった」
手にした串をルークに一本押し付ける。
「試験合格祝いです」
ルークは受け取り、小さくかじった。
「……悪くないな」
「おいしい、です」
リリィは大口で頬張り、幸せそうに目を細めた。
広場の端で、一瞬だけ冷たい視線が走った。
黒衣の男が建物の陰からこちらを見ている。
視線が絡むと、男はすぐに目を逸らし、群衆に紛れた。
リリィは気づかない。ルークは串を持つ手をほんの少し止めて、何事もなかったように歩き出した。
「このあと、どうしますか。宿に行きます?」
「そうしよう。登録証を受け取るのは明日だ」
「じゃあ、その前に薬草園だけ、外から見るだけ。ほんの少し」
「……分かった。外からだけだ」
「やった」
石畳を歩く。大聖堂の鐘が遠くで鳴った。王都の夜が始まる。
昼よりも音が増え、人の気配が濃くなる。灯りが一つ、また一つとともる。
リリィが並んで歩幅を合わせた。
「ねえ、ルークさん」
「なんだ」
「今日、顔が怖い時間、少なかったですよ」
「そうか?」
「はい。だから、たぶん明日も大丈夫です」
「根拠は」
「なんとなくです。私のそういう勘、当たるんです」
ルークは肩の力を少し抜いた。
「……頼りにしている」
「任せてください」
宿に着くまでの間、ルークは何度か後ろを見た。黒衣の気配は見えない。
だが、何かが動き始めた予感は消えない。
「明日は早めに動こう」
「はい。朝の薬草園は空気がいいです」
「……試験の説明、診療所向けの資料も書く」
「紙は私が用意します」
宿の看板が見えた。小さなランプがきれいに磨かれて、優しい光を出している。扉を開けると、温かい湯気とパンの匂いが迎えてくれた。
「二人、泊まりで」
「部屋は一つ? 二つ?」
「二つで」
リリィが即答する。宿の娘がぱっと笑った。
「はい、二つですね」
鍵を受け取り、階段を上がる。廊下の窓から王都の夜がのぞいていた。遠くで演奏が続いている。明かりが川のように流れていく。
部屋の前で、リリィが立ち止まった。
「ルークさん」
「なんだ」
「合格、おめでとうございます」
「……ああ、ありがとう」
「明日も、一緒に行きましょう」
「もちろん」
扉が閉まる音が二つ。少しの間だけ、静けさが戻る。
ベッドに腰を下ろすと、今日の出来事が順に浮かんだ。
ルークは腰の薬袋を手元に引き寄せた。瓶の栓を一つずつ確かめて、深く息をした。
——まだ入口に立っただけだ。
窓の外で、また鐘が鳴った。王都の夜は長い。けれど、今日はよく眠れそうだ。