西区の診療所を出ると、石畳の通りは昼の色に近づいていた。
露店の魔法灯が薄く揺れ、小さな配送鳥が屋根から屋根へ糸のように飛ぶ。
香辛料の袋が山になり、串焼きの匂いが風に混じる。
「ルークさん」
袖をつつく声に振り向くと、小さな男の子が走ってきた。頬は赤く、目は元気だ。
「昨日、ありがとう!紙、母ちゃんが壁に貼った!」
その後ろで、母親が深く頭を下げる。
「飲む量と、やめる目安が書いてあって……あれで落ち着けました。本当に助かりました」
「よかった」
ルークは短くうなずいた。
「書いて渡して、正解だった」
リリィが胸を張る。
「図の効果、抜群です。今日もたくさん描きますね!」
通りのあちこちから、噂が耳に入ってくる。
「昨日の診療所、あの薬師が来てたってな」
「でも危ない調合をするって。一歩間違えば毒になるってよ」
リリィが横目でこちらを見る。
「……賛否、半々ですね」
「王都はそういう場所だ」
ルークは肩の荷ひもを持ち直す。
「形はすぐ変わる。中身だけ残ればいい」
「中身は残ります。私、ちゃんと見てますから」
リリィは前を見て歩幅を合わせた。
角を曲がった先、市場の片隅で、布を広げた露店商が手を上げた。
「薬師さん、ちょっと!」
日焼けした男だ。手には小さな木箱。
「家の子が夜な夜な咳き込むんだ。診療所に行く金が足りなくて……見てもらえませんか」
リリィがすぐに頷く。
「行きましょう」
ルークも迷わず答えた。
「わかった。道を」
露店の奥は狭い住居だった。古い魔導灯が弱く光り、布団の上で子どもが肩を上下させている。
咳は乾いて長い。額は熱いが、手足は冷えてはいない。
「ルークさん」
「大丈夫だ」
ルークは脈と呼吸を確かめ、鞄を開けた。
支給薬草の束と、小さな薬瓶。
鍋と火口を借り、手を洗う。
「薄い解熱と、喉を楽にする組み合わせ」
瓶の栓を外し、計量匙で一滴分を薄める。銀葉草の粉末をわずかに足し、温めて香りを立てた。
「リリィ、背を支えて」
「はい。ゆっくり飲もうね」
子どもが一口、二口と飲み下した直後、喉の奥で強い咳が一つ込み上げた。
母親が思わず身を乗り出す。
「だ、だめですか……?」
「大丈夫。今は喉が驚いただけ。数呼吸、待って」
ルークは落ち着いた声で手を上げ、胸の上下をもう一度見る。
数拍のあいだ、咳が続き——やがて音が軽くなる。
子どもの喉が動き、しばらくして咳が短くなる。
肩の上下が落ち着き、息が深く入るようになった。
「……すごい」
露店の男が目を見開く。
「もっと強い薬にしなくていいんですか」
「今はこれで十分」
ルークは紙と羽根ペンを取り出し、さらさらと描きはじめる。
「服用量。夜は半量。朝に咳が続いたら、もう一度。ここまででやめる。水はこれくらい。熱が上がって顔が赤く、手足が冷えたら診療所へ」
図と矢印で、誰が見てもわかるように。
「母ちゃん」
子どもが小さな声で言う。
「……楽になった。ありがとう」
「うん……うん、よかった……」
母親は目尻を拭い、紙を両手で受け取った。
「診療所に行けない家、多いんです。並ぶ時間も、お金も……」
「……この子、また外で走れますか。広場で、前みたいに」
母親の声が震える。ルークは短くうなずいた。
「焦らなければ戻ります。この紙どおりに。数日は安静、それから少しずつ」
リリィがそっと言う。
「これからは…私たちが歩いて回りましょう。毎日は無理でも、少しずつ」
ルークは一瞬だけ考え、頷いた。
「できる範囲でやる。紙も多めに用意しよう」
通りに戻ると、人の視線が先ほどより長くこちらに留まる。
「ほら、あの薬師」
「昨日の子ども、助けたやつだ」
「でも危険なやり方だってよ」
「危険でも効くなら……」
言葉が混ざり、空気に残る。
「評判はどうでもいい」
ルークは穏やかに言う。
「助けた子が笑えば十分だ」
リリィは笑ってうなずいた。
「でも、その笑顔が広まれば、きっと変わります。私、そう思います」
昼過ぎ、二人はギルドに戻った。磨かれた床と薬草の匂い。受付嬢が顔を上げる。
「お帰りなさい。伝達があります」
「依頼?」
「それもありますが……薬師長が近くで会合を開きます。あなたの報告が、そこで話題になっています」
「……薬師長は、あなたを試す気かもしれません。実演か、質疑か。詳報はまだですが」
ルークは少しだけ目を伏せた。
「……目立ちすぎたか」
「でも」
リリィが言葉を継ぐ。
「それでも、命を救うのは変わりません」
受付嬢が紙束を差し出す。
「新規の依頼が二件。西区の小診療所の再応援と、南市場の路地での巡回。どちらも“服用紙”を前提にしています」
「前提?」
「昨日の紙が役に立った、と。要望です」
リリィの顔がぱっと明るくなる。
「やりました。図、増刷ですね」
「任せる」
ルークは素直に笑った。
報告と記録を渡してギルドを出ると、午後の風が街路の布を揺らした。
空を配送鳥が横切り、翼のある馬が訓練場へ運ばれていく。
屋根の連なりの上、ひとつだけ黒い影が留まった。
黒衣の男だ。手すりに片手を置き、こちらを静かに見下ろしている。
彼は指で手すりを二度、軽く叩いた。唇がかすかに動く。
屋根の影の奥で、誰かが位置を移した気配がして、すぐ消えた。
「見られてますね」
リリィが小さく肩を寄せる。
「ああ。放っておけばいい」
ルークは歩調を緩めない。
「敵が増えるのは仕方ない。救う方が先だ」
「はい」
リリィは地図を折りたたみ、指先で紙の端を揃えた。
「次は南市場の巡回から行きましょう。屋台の間なら、人に会えます」
「そうしよう。服用紙は十枚追加。字を大きく、絵を一つ増やす」
「絵は任せてください」
二人は石畳を並んで歩く。
道端の魔法灯が明るさを少し上げ、露店の鈴が鳴った。
通りの子どもが手を振り、親が軽く会釈する。冷えた視線も混ざるが、足は止まらない。
路地を抜け、広場へ出る。
噴水の縁に花売りの籠。水面には配送鳥の影。ルークは鞄の中の紙束を数え、リリィはペン先を整える。
「ルークさん」
「ん」
「この紙、もっと広めたいです。読める人も、読めない人も、誰でも使えるように」
「絵を増やして、言葉を減らす。店に貼ってもらうのもいい」
「歌にしてもいいかも。飲み方の歌」
「音痴じゃなければな」
「失礼な。練習します」
二人の会話に、通りの笑いが少し混じった。
遠くで大聖堂の鐘が鳴り、午後がゆっくり進む。黒衣の影は屋根の向こうへ消えた。
風だけが残り、紙の端をめくる。
ルークは空を一度見上げ、前を向く。
「行こう」
「はい」
小さな紙が広めたのは、一人の命。だがその背後には、揺れ始めた王都全体の視線があった。