第4話:水に沈む指輪
プールサイドの冷たい風が頬を撫でていく。刹那は暁の怒りに満ちた視線を受けながら、静かに立っていた。
「刹那、君が蝶子ちゃんを泣かせたんだから、君が責任を持って機嫌を取ってくれ」
暁の言葉が空気を切り裂いた。
蝶子は涙を拭いながら、暁の腕の中から顔を上げる。その瞬間、刹那だけに見えるように、唇の端を僅かに上げた。
「暁さん......」蝶子が震え声で呟く。「でも、私たち十六年と七ヶ月のお付き合いなのに、刹那さんはたった八年で......」
十六年と七ヶ月。
その数字が刹那の胸に突き刺さった。暁と出会ったのは八年前。ということは、蝶子との関係の方がずっと長いということになる。
「蝶子ちゃん、そんなことは関係ない」暁が優しく彼女の髪を撫でる。「刹那、謝罪しろ」
刹那は何も答えなかった。
すると蝶子が突然立ち上がり、左手の薬指から指輪を外した。ダイヤモンドが陽光を反射してきらめく。
「この指輪......暁さんからもらった大切なものなの」
蝶子は指輪を高く掲げると、躊躇なくプールに投げ入れた。
水面に小さな波紋が広がる。指輪は底に沈んでいった。
「刹那さん、これを拾ってくれたら許してあげる」
蝶子の声に挑戦的な響きがあった。
刹那はプールの底を見つめた。透明な水の向こうで、指輪がきらめいている。
その時、記憶が蘇った。
八年前の荒れ狂う海。車椅子の暁が波打ち際で絶望に暮れていた時のこと。
「俺はもう歩けない。生きている意味がない」
暁は車椅子ごと海に向かおうとした。
「やめて!」
刹那は泳げなかった。それでも、彼を止めるために海に飛び込んだ。
塩水が肺に入り、溺れそうになりながらも、必死に暁の車椅子を掴んだ。
「一回り泳いでみろ。そうしたら、これからは君の言うことを聞く」
暁はそう言った。
刹那は死に物狂いで泳いだ。何度も沈みそうになりながら、一回り泳ぎ切った。
その後、暁は心配して家のプールにさえ水を入れることを禁じていた。
「暁、たとえあなたの足が一生治らなくても、私はあなたと結婚するつもりよ」
あの時の自分の言葉が、今は虚しく響く。
刹那はコートも脱がずに、冷たいプールに飛び込んだ。
十二月の水は氷のように冷たかった。全身に鋭い痛みが走る。
頭の傷口が開いた。包帯が赤く染まっていく。
「お嬢様!」
執事の柏木が叫び声を上げた。
刹那は必死に潜って指輪を掴んだ。浮上した時、視界がぼやけていた。
「刹那!」
暁がプールに飛び込んできた。彼女を抱き上げて岸に運ぶ。
「なぜそこまで意地を張るんだ!」
暁が怒鳴った。
刹那は冷たく言い返した。
「あなたが彼女の機嫌を取れと言ったのでしょう?今のこの様子で、あなたの想い人は満足したでしょう?」
「想い人?何を言っている」暁の眉が寄った。「蝶子ちゃんは妹のような存在だ。俺は世論を気にして、君のために行動しているんだ」
世論のため?妹のような存在?
刹那は立ち上がろうとした。もうこの茶番に付き合う気はなかった。
しかし、出血多量で意識が朦朧としていた。足がもつれ、その場に崩れ落ちる。
「刹那!」
暁が駆け寄ろうとした、その時。
蝶子が突然腰をかがめて地面にしゃがみ込み、涙ながらに訴えた。
「暁さん、お腹がすごく痛いの。二階に連れて行って休ませて」
暁の足が止まった。
彼は刹那を抱き起こそうとしていた手を引っ込め、振り返って蝶子を抱き上げた。
刹那の頭が重々しく地面に打ち付けられる。
暁は気にも留めず、そばにいた執事を見て、ただ一言残した。
「柏木さん、奥様を病院へ」