第7話:最後の晩餐
[氷月詩の視点]
レストランの暖かい照明が、三人のテーブルを照らしていた。
私の誕生日ディナーのはずなのに、蓮の視線は刹那にしか向いていない。
「刹那、ソースが付いてるよ」
蓮が自分のナプキンで、刹那の口元を拭った。
恋人同士のような仕草。
妊娠中の妻の目の前で。
胃が重くなる。つわりとは違う、別の種類の吐き気だった。
「ありがと、蓮くん」
刹那が甘えるような声で礼を言う。
私は静かに席を立った。
「どこ行くの?」
蓮が振り返る。
「お手洗い」
「体調悪いのか?」
心配そうな声だけれど、視線はすぐに刹那に戻った。
「刹那が食べ終わったら、すぐに戻るから」
私への返事ではなく、刹那への約束。
妊娠中の妻の体調よりも、刹那の食事の方が大切。
「わかった」
私は微笑んで答えた。
もう、何も期待していない。
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レストランの厨房では、シェフが慌てふためいていた。
「火災報知器が誤作動してる!」
「お客様を避難させなければ!」
警報音が店内に響き渡り、客たちがざわめき始めた。
「火事よ!」
「急いで!」
パニックが広がる中、蓮は迷わず刹那を抱きかかえた。
「大丈夫、俺がいる」
刹那を守るように抱きしめ、出口に向かって走る。
一度も振り返ることなく。
妊娠中の妻がどこにいるかも確認せずに。
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[氷月詩の視点]
警報音が鳴り響いた瞬間、私は蓮を探した。
煙はない。でも、人々が慌てて出口に向かっている。
「蓮!」
声を上げて呼んだ。
でも、返事はない。
人混みの中で、蓮の姿を見つけた時、心臓が止まりそうになった。
蓮が刹那を抱きかかえて、必死に走っている。
私の存在など、完全に忘れて。
緊急事態の時、人は本能的に一番大切な人を守る。
蓮にとって、それは刹那だった。
私じゃない。
お腹の赤ちゃんでもない。
刹那だけ。
十分後、警報が止まった。
「誤報でした!申し訳ございません!」
店員の声が響く。
蓮と刹那が店に戻ってきた。
「詩!大丈夫だったか?」
蓮が慌てて私に駆け寄る。
でも、遅い。
もう、全て遅い。
「言っただろ。お前のことは、一生守るって」
蓮が刹那に囁いた言葉が、私の耳に届いた。
一生守る。
その誓いを、私は一度も聞いたことがない。
山登りの時もそうだった。
崖から落ちそうになった時、蓮が手を伸ばしたのは刹那だった。
私が転んでも、蓮は刹那の手当てを優先した。
ずっと、そうだった。
ようやく、詩は悟った――これまでの何年もの間、蓮は一度だって、自分を愛したことなどなかったのだ。彼の心の中で、何よりも大切なのは、いつだって初恋のような存在、刹那だけだった。
「詩、すまない。お前のことを忘れて……」
蓮が謝罪の言葉を口にする。
「刹那は芸能人だから、絶対に怪我させるわけにいかなかった」
見え透いた言い訳。
いつもの、刹那を優先する理由。
私は静かに微笑んだ。
「わかってる」
蓮の表情が困惑に変わった。
いつもなら、私は怒っていた。
泣いていた。
でも、今日は違う。
「怒ってないよ」
本当に、怒っていない。
もう、何も感じない。
「詩……?」
蓮が不安そうに私を見つめる。
その時、刹那が咳き込んだ。
「刹那!大丈夫か?」
蓮は即座に私を置いて、刹那に駆け寄った。
「煙を吸ったかもしれない。病院に行こう」
「でも、詩さんの誕生日……」
「気にするな。詩は大丈夫だ」
蓮が刹那を支えながら立ち上がる。
「詩、先に帰ってくれ。刹那を送ってから帰る」
また、刹那優先。
でも、私は静かに頷いた。
「わかった」
蓮の困惑した表情が、私の心に何の波紋も起こさなかった。
もう、期待することも、失望することもない。
ただ、静かな諦観だけが残っていた。