「詩織、それってどんな方法なの?早く教えてよ!絶対にお母さまには言わないから!」
彩香は目を輝かせ、子どものように身を乗り出した。
柳田詩織(やまぎだしおり)は得意げに唇を吊り上げ、ひそやかに囁く。
「こっちに来て。耳打ちしてあげるわ」
その頃、階下。
美月はずっと立ったまま待たされていたが、いっこうに伊藤夫人からの呼び入れがない。
──どういうこと? わざわざ呼びつけておいて、放置って……。
不安げに胸中で呟いた、その瞬間。
「ガシャーン!」
頭上から何かが勢いよく落ちてきた。破片が四方に飛び散り、熱い液体が美月の肩口に降りかかる。
「きゃっ!」
慌てて後ずさるが、数歩も退かぬうちに、背後に「肉の壁」のようなものへ激しくぶつかってしまった。
圧倒的な男性の匂い。濃厚なフェロモンの気配が一瞬にして彼女を包み込む。
──この匂い……どこかで……。
なぜか既視感に胸がざわつく。
周囲から驚きの息が漏れた。
「彰人様!」
女中や護衛たちが慌てて声を揃える。
その直後、二階から甲高い声が響いた。
「お兄さまっ!」
そして甘ったるい声も。「彰人お兄さま──!」
──え……?今、なんて……?
美月は目を丸くした。
ぶつかったのって、もしかして……。伊藤家の重要人物?
胸がざわつき、焦燥感が込み上げる。伊藤家に送り込まれる前、彼女はこの家のことなどまったく知らなかった。だからこそ、今、得体の知れない不安が押し寄せる。
考えがまとまる前に、彼女の体は男の手によって乱暴に押しのけられた。
冷え切った声が、鋭く突き刺さる。
「──佐々木さん、ご自重を」
ご……自重?
美月は呆然と立ち尽くし、やがて顔を上げる。
黒いスーツに身を包んだ長身の青年。
少なく見積もっても一八五センチはあるだろう。見上げるだけで首が痛くなるほどの威圧感だった。
彼の横顔は、若く整っているのに、どこか冷ややかで──怒りを湛えている。
星星が慌てて口を開く。
「あの、ごめんなさい……わたし、わざとじゃなくて……上から突然──」
言い訳を言い切る前に、男の声が彼女の言葉を遮った。
「──伊藤彩香。おまえ、また調子に乗ってるな?」
二階から怯えた声が返ってくる。
「ご、ごめんなさい!兄さん!本当にわざとじゃないの!勉強しなきゃだから、先に行くね!」
ドタドタと逃げていく足音。彼女はこの兄が何よりも怖いのだ。
やがて、上の階は静まり返った。
美月は視線を上げ、さきほど自分が立っていた場所に目を向ける。
床には砕け散った茶碗と茶葉、そしてびちゃびちゃに広がった茶水。
──やっぱり、誰かがわざと……!
胸の奥で怒りと悲しみが交錯する。
自分は罠に嵌められてこの家に送られた「被害者」のはずなのに。
なのに今では、伊藤家の人間すべてが彼女を「仇敵」のように扱っていた。
理不尽さに唇を噛む。
「佐々木さん、ぼんやりしてないで。奥様がお待ちです」
横にいた女中が苛立ち混じりに声を掛ける。
ハッとして周囲を見回すと、あの黒衣の青年の姿はもうどこにもなかった──。