蓮麻呂の実力露呈から一週間が過ぎた頃、都では奇妙な噂が流れ始めていた。陰陽寮での鬼熊討伐の件が、様々に脚色されて語り継がれているのだ。
「藤原家の三男が、実は隠れた天才だったらしい」
「いや、何か怪しい術を使ったという話もある」
「妖怪を一撃で倒すなんて、普通じゃない」
小菊がこれらの噂を蓮麻呂に報告した時、彼は嫌な予感を覚えていた。
「若様、街での評判が二分しているようです」
小菊は心配そうに言った。
「賞賛する声もありますが、疑念を抱く人も多いようで」
「疑念?」
「はい。あまりにも急激な実力向上なので、何か裏があるのではないかと」
蓮麻呂は溜息をついた。確かに、客観的に見れば不自然な話だった。昨日まで平凡だった三男が、突然超人的な力を発揮する。疑いの目を向けられるのも無理はない。
「特に気になるのは」
小菊が声を潜めた。
「妖怪と何らかの取引をしているのではないか、という噂です」
「妖怪と取引?」
「はい。人間が急激に力を得る方法として、邪悪な妖怪と契約を結ぶという古い話があるそうです」
それは確かに危険な噂だった。もしそれが信じられるようになれば、蓮麻呂は陰陽師として致命的な疑いをかけられることになる。
その日の午後、蓮麻呂は父に呼び出された。書斎に向かうと、道長は深刻な表情で待っていた。
「座れ」
「はい、父上」
道長は机の上の書類を整理してから口を開いた。
「お前のことで、少し厄介な話が持ち上がっている」
「厄介な話……ですか?」
「橘家から、非公式ながら照会があった」
道長の表情が曇った。
「お前の急激な実力向上について、詳しい調査を行いたいとのことだ」
蓮麻呂の背筋に冷たいものが走った。橘家が動き出したということは、政治的な思惑が絡んでいる証拠だった。
「調査とは?」
「表向きは『優秀な若手陰陽師の研究』となっているが……」
道長は苦い表情を見せた。
「実際には、何らかの不正がないかを探ろうとしているのだろう」
「不正……」
「妖怪との禁断の契約、禁術の使用、そういった疑いだ」
父の言葉に、蓮麻呂は戦慄した。それらは全て、陰陽師にとって最も重い罪とされるものばかりだった。
「しかし、私はそのようなことは……」
「私は信じている」
道長が手を上げて制した。
「だが、政治的な思惑が絡むと、事実よりも疑惑の方が重要になることがある」
その夜、蓮麻呂は小菊と共に今後の対策を考えていた。しかし、事態は彼らの想像を超える速度で悪化していた。
翌朝、屋敷に一通の密告状が届いた。差出人は不明だったが、内容は衝撃的だった。
『藤原蓮麻呂は夜中に妖怪と密会している。その証拠として、以下の品々を庭に隠している』
そして、具体的な隠し場所まで記載されていた。
「これは……」
道長の顔が青ざめた。
「父上、これは明らかに偽の告発です」
蓮麻呂は必死に弁明した。
「私もそう思う。しかし……」
道長が庭の指定された場所を調べさせると、確かに怪しい品々が発見された。妖怪の毛、血のような赤い液体、そして奇妙な文字が刻まれた石板。
「これは一体……」
蓮麻呂は愕然とした。明らかに何者かが仕組んだ罠だった。しかし、物的証拠がある以上、無実を証明するのは困難だろう。
「父上、これは誰かの陰謀です」
「分かっている」
道長の表情は苦渋に満ちていた。
「しかし、この状況では公的な調査を拒むことはできない」
その日の夕方、橘家からの正式な調査要請が届いた。同時に、他の家からも同様の要請が相次いだ。政治的な圧力が、一気に高まっていた。
「蓮麻呂」
蓮次郎が現れた。その表情は同情的だったが、瞳の奥に隠された感情を蓮麻呂は見逃さなかった。
「大変なことになりましたね」
「兄上……」
「しかし、真実は必ず明らかになります」
蓮次郎の言葉は慰めるようだったが、どこか他人事のようだった。
「正直に話せば、きっと理解してもらえるでしょう」
その時、蓮麻呂は気づいた。蓮次郎の態度に、微かな満足感が滲んでいることに。まるで、予想通りの展開になったとでも言うような。
(まさか……)
恐ろしい推測が頭をよぎった。しかし、それを確認する術はなかった。
その夜、小菊が蓮麻呂のもとに駆け込んできた。
「若様、大変です!」
「どうした?」
「証人が現れたそうです。若様が妖怪と密会しているところを見たという人が」
「証人?誰だ?」
「それが……複数いるらしく、明日の査問会で証言するそうです」
蓮麻呂は暗澹たる気持ちになった。偽の証拠に加えて偽の証人まで。これは組織的な陰謀に違いなかった。
(一体誰が……そして、なぜ?)
しかし、答えは案外近いところにあるのかもしれない。兄たちの嫉妬、橘家の政治的野望、そして複雑に絡み合った利害関係。全てが蓮麻呂を標的とした巧妙な罠だった。
明日には査問会が開かれる。そこで、蓮麻呂の運命が決まることになるだろう。罠は既に完成し、あとは獲物がかかるのを待つだけだった。