秋の深まりと共に、都には不穏な空気が漂っていた。橘家の政治工作が日増しに活発化する中、思わぬ事件が発生した。
「妖怪が陰陽寮に!?」
蓮麻呂は小菊からの報告に驚愕した。朝の修行を終えたばかりだったが、緊急事態の知らせに慌てて身支度を整える。
「はい。上級妖怪の『鬼熊』が寮内に乱入し、多数の陰陽師が負傷しているとのことです」
鬼熊――蓮麻呂は前世の知識と現世の記憶を照合した。巨大な熊の妖怪で、怪力と頑丈な毛皮を持つ危険な存在。通常は山奥に棲息し、人里に現れることは稀だった。
「父上や兄上たちは?」
「既に現場に向かわれました。若様もお急ぎくださいとのことです」
蓮麻呂は慌てて陰陽師装束に着替えた。深い青の狩衣に、白い小袖。腰には霊符を収めた袋を下げる。表向きは駆け出しの陰陽師だが、実際の実力は既に兄たちを上回っているかもしれない。
(でも、今日も実力は隠すべきだろうか?)
陰陽寮に到着すると、現場は混乱の極みだった。建物の一部が破壊され、負傷した陰陽師たちが次々と運び出されている。そして、中庭では巨大な黒い影が暴れ回っていた。
「グルオオオオオ!」
体長三メートルはある巨大な熊の妖怪が、陰陽師たちの攻撃を物ともせずに暴れ続けている。その毛皮は鋼鉄のように硬く、普通の術式では傷一つ付けられない。
「火術、効きません!」
「水術も弾かれます!」
現場の陰陽師たちが次々と後退していく。中には一級陰陽師もいるはずだが、鬼熊の圧倒的な力の前では無力だった。
「蓮麻呂、下がっていろ!」
蓮太郎が弟に向かって叫んだ。彼自身も額に汗を浮かべながら、必死に術式を放っている。
「炎弾・連射!」
蓮太郎の火術が鬼熊に向かって飛んだが、やはり効果は薄い。鬼熊はむしろ怒りを増したように、より激しく暴れ始めた。
「結界術で動きを封じるのです!」
蓮次郎が叫びながら複雑な術式を展開した。土の結界が鬼熊の足元に現れるが、怪力であっさりと破壊されてしまう。
「くっ、硬すぎる!」
その時、鬼熊の視線が観戦している蓮麻呂に向けられた。血走った赤い目に、明確な殺意が宿っている。
「危ない!」
誰かが叫んだ瞬間、鬼熊が蓮麻呂に向かって突進してきた。その巨体が迫る速度は想像以上で、周囲の陰陽師たちも間に合わない。
(まずい!)
咄嗟に、蓮麻呂の頭の中で前世の知識が高速回転した。鬼熊の弱点は何か? 物理的な硬さに頼る妖怪なら、分子レベルでの攻撃が有効なはず。
「炎術・分子振動式!」
蓮麻呂の右手から放たれた炎は、見た目には小さな火球だった。しかし、その本質は全く違う。分子レベルでの高速振動を引き起こし、どんな物質でも内部から破壊する究極の炎術。
火球が鬼熊に当たった瞬間、信じられない光景が展開された。
「グルアアアアア!」
鬼熊の巨体が、まるで煙のように消散していく。その毛皮の硬さも、巨大な体躯も、全てが分子レベルで分解されていった。わずか数秒で、恐ろしい妖怪は完全に浄化されてしまった。
「え...?」
中庭に死のような静寂が落ちた。全ての陰陽師が、蓮麻呂を見つめている。その表情には、驚愕と困惑が入り混じっていた。
「今の術式は……」
「一撃で鬼熊を……」
「蓮麻呂殿がですか?」
ざわめきが次第に大きくなっていく。蓮太郎と蓮次郎も、弟を見る目が明らかに変わっていた。
「蓮麻呂……」
蓮太郎が震え声で呼んだ。
「今の術式は、どこで覚えた?」
(しまった……)
蓮麻呂は自分の失敗を悟った。咄嗟の判断とはいえ、あまりにも目立ちすぎる技を使ってしまった。これでは実力を隠すどころの話ではない。
「あ、あの……」
何と答えるべきか迷っていると、安倍晴明が現れた。陰陽寮の最高責任者である彼の表情も、強い興味を示している。
「蓮麻呂殿」
晴明が近づいてきた。
「今の術式について、詳しく教えていただけますか?」
「それは……」
「見たところ、従来の火術とは全く異なる理論に基づいているようですが」
周囲の視線が痛いほど感じられる。蓮麻呂は咄嗟に言い訳を考えた。
「独自に研究していた術式です。まだ理論的に完成していないので……」
「ほう、独自に?」
晴明の瞳が光った。
「興味深い。後日、詳しくお話を聞かせていただければ」
「はい……」
蓮麻呂は小さく頷いた。しかし、心の中では警鐘が鳴り響いている。これで完全に注目を集めてしまった。政治的に微妙な時期に、これほど目立つとは。
帰路の牛車の中で、家族の間には重い沈黙が流れていた。そして、蓮次郎が口火を切った。
「蓮麻呂」
「はい」
「いつから、そのような術式を使えるようになったのです?」
その声音には、明らかな疑念が込められていた。蓮麻呂は慎重に答えた。
「最近、独学で研究していまして……」
「独学で?」
蓮次郎の笑みには、冷たいものがあった。
「鬼熊を一撃で倒すほどの術式を?」
「偶然、うまくいっただけです」
「偶然……そうですか」
蓮次郎はそれ以上追及しなかったが、その表情には明らかに不信の色があった。そして、その夜から、蓮麻呂の周囲で奇妙なことが起こり始める。
隠していた実力が露呈してしまった今、政治的な嵐は予想以上に早く、蓮麻呂の身に降りかかろうとしていた。