彼が彼女の両手を乱暴に振り払い、歯の隙間から彼女の名を絞り出した。
その漆黒の瞳は嵐を孕み、今にも荒れ狂いそうだ。
「自分の立場を忘れるな!」
──立場?
要するに彼の怒りは、堂々たる清水家の二夫人が、指輪を売り払うような真似をして自分の顔に泥を塗った、ただそれだけのことなのだろう。
指先に戻ってきた戒指を見つめながら、穂香はそれ以上抵抗しなかった。
外すなと言うのなら──
明日また売ればいい。
どうせ、金は必要なのだから。
……
お義母さんの岡田美桜(おかだ みさくら)からの一本の電話で、穂香はしぶしぶ本家へ向かった。
「今ごろ来たの?今日が何の日か分かってないのかい!」
玄関をくぐった瞬間、怒声が浴びせられる。
今日は美桜の誕生日だ。
本来なら朝一番に来て昼食の支度を始めるのが「いつもの役割」だった。
だが今年は遅れて現れ、しかも呼び出されて来た始末。
──不孝者、と言いたいらしい。
だが、今日の穂香はいつもと違った。うつむきもしない。ただ静かに立ち尽くす。
「何を突っ立っているの、早く昼食の支度を!」
吐き捨てるような言葉。
その声音には、蔑みと嫌悪しかなかった。
「……私は召使いじゃありません」
声は淡々と。しかし揺るぎない。
「な、何ですって?」
美桜の目が大きく見開かれる。
これまで従順で、命じられれば何でもしていた嫁が……今日に限っては反抗するなど。
まるで人が変わったような口ぶりに、息をのむ。
「私は彰人の妻です、清水家の使用人ではありません」
二年間、胸の奥に溜め込んでいた言葉がようやく解き放たれる。
清水家の中で自分を受け入れてくれたのは祖父だけ
――夫すら含まれていない。
だから彼女は清水家に嫁いでから薄氷を踏むような思いで、その地位は使用人以下だった。
愛していたからこそ、必死に彼と家族に尽くし、蔑まれても耐え抜いた。
だが──
もう終わりだ。
「あんた…」
美桜の顔は怒りと困惑で紅潮する。
「お義母さんに仕えるのも、夫を立てるのも、嫁の務めよ!私の誕生日に食事を用意する、それすら嫌だと言うの!?」
「ええ、嫌です」
「なっ……何ですって!?」
「この二年間、誰の誕生日でも、どんな行事でも、料理を作ったのはいつも私ひとりでした。必死に作った料理を、毎回『しょっぱい』『味が薄い』と粗探し。あなたなら、屈辱に感じませんか?」
反論の余地はなかった。美桜の喉がひゅっと詰まる。
穂香が言ったのはすべて事実だ。
「お義姉さん」
驚きの声が空気を切り裂いた。
二階から駆け下りてきたのは沈北棠の従妹、岡田楓(おかだ かえで)。
いかにも心配そうな声で口を挟む。
「そんな言い方は良くないですよ。お義姉さん、叔母さんがあなたをどれだけ可愛がってきたか、皆が知ってます」
「私を可愛がる?笑わせないで」
穂香の冷笑に、楓はすぐに涙目になる。
「だってそうでしょ? 二年前、兄さんを陥れて無理やり結婚させたあなたを、叔母さんは何も言わず受け入れてくださったんです。もし反対されていたら、今ここにいないはずですよ。感謝すべきじゃないですか?」
――表向きは優しい言葉。けれど実際には油を注ぐ挑発だ。
穂香は楓のことをよく知っていた。
人前では良い子、裏では腹黒女。
美桜が穂香にこれほど深い偏見を持つのは、楓の功績が大きい。
「清水家、清水家って……ご自分の姓を忘れたんですか、岡田さん?」
皮肉な一言に、楓はますます「健気な少女」を演じて見せる。
美桜の怒りが、さらに膨れ上がった。
「穂香、黙りなさい!」
「楓は幼くして両親を亡くし、十年以上清水家で暮らしてきた子。ここは彼女の家でもあるのよ!あなたに口出しする資格はない!」
「そうですか。なら……ご自由に」
「楓に謝りなさい!」
「なぜです?何一つ間違ったことは言ってません」
「叔母さん、いいんです。お義姉さんはつい言葉を間違えただけ……謝らなくても、私は気にしませんから」
――そう言えば言うほど、斎藤穂香が悪者に見える。
「今すぐ謝れ!」
美桜はいとこを心配し、穂香に厳しく命じた。
「嫌です」
静かな、だが揺るぎない拒絶。
美桜は息を呑み、顔色が青ざめるほど驚き声を上げた。「斎藤穂香、私を敬っていないのか?」
楓はすかさずおずおずと続ける。「姑さん、まあいいじゃないですか。お義姉さんはここ二年、兄さんに嫌われているでしょう。彼女も辛い思いをしているのは分かるけど、そんな怒りを私たちにぶつけないでください。私たちは本当にあなたのためを思っているんです」
――「嫌っている」その二文字が、穂香の胸を鋭く刺した。
誰もが彰人が自分を嫌っていることを知っているのに、自分だけが一方的に熱を上げ続け、命がけで愛し続けていたのだ。
愚かしいとしか言いようがない。
二年前のことについては、
彼女は何度も弁解した。自分の仕業ではないと。
しかし誰も信じてくれなかった。
信じてもらえないのなら、これ以上説明する価値もない――そう悟ったのだ。
楓の挑発に、穂香は何も言わず、ただ冷笑を返した。
だがその一笑いが岡田美桜の怒りに油を注ぎ、
長年の長輩としてのプライドがここで初めて侮られた気がした美桜は、
思わず手を振り上げて穂香に一撃を加えようとした。
「お母さん!」
だが手が穂香の頬に届く前に、玄関口から低く冷たい声が響いた。
彰人だ。
彼は大股で歩み入ると、緊迫した場面を一瞥し、
無表情のまま穂香の前に立ちはだかった。
「母さん、何をしている」
美桜は怒りを抑えきれずに訴えるように言った。「ちょうどいいところに帰ってきたわ!この嫁は図々しくて──ただ昼食の支度を頼んだだけでこんな態度よ!」
「彼女は俺の妻だ」彰人は簡潔に言った。
空気が静まり返った。
その沈んだ言葉の裏には、愛していないという事実は別としても、
彼女が清水家の正妻であるという事実を軽んじるべきではない、という含意があった。
美桜の続ける言葉はそこで詰まり、喉に引っかかったように止まった。
「――すぐに、そうではなくなるけどね」
美桜と楓が彰人のその一言に驚き、まだ足を止めている間に、穂香は淡々と口にした。
その言葉が放たれた瞬間、三人の視線が鋭い刃のように彼女へ向かった。
人の瞳は陰りを帯びる。
「私は皆の気分を損ねるようなら、ここに居て邪魔をするつもりはありません。ごゆっくり」
そう言い残すと、穂香はそのまま背を向けて出て行った。
彰人は不機嫌そうに後を追おうとした。
「彰人!」美桜が呼び止めると、
彼はそこで足を止めた。
「穂香、さっきの言葉はどういう意味だ?」美桜は震える声で問いただす。顔にはまだ驚きが残る。
「お兄さん、穂香…お義姉さんはあなたと離婚するつもりなのですか?」楓は心配を装って尋ねたが、その瞳の片隅には瞬間的な高揚と喜びが走った。
彰人は陰鬱な表情で唇を引き結び、答えなかった。
「ねえ、彼女の言ったことは本気なのか?」と美桜が詰め寄る。
「誕生日おめでとう」
それだけ言うと、彼は贈り物を置いて足早に外へ出て行った。
ちょうどそのとき、穂香の車が車庫を出ていくところだった。
「止まれ!」
彼の鋭い声が飛ぶ。
穂香は減速し、フロントガラス越しに冷ややかに彼を見返した。