「……もう、あんたと話すのも疲れた」
冷えきった声でそう言い放つと、部屋の空気が一瞬で凍りついた。
彰人の唇に浮かんでいた嘲笑めいた笑みも、
そのまま凍りつく。
「斎藤穂香、いい加減にしろ。駆け引きはほどほどにしないと飽きられるぞ。」
氷のような声が彼の口から落ちる。
「月曜に区役所に行けば、私が本気かどうかわかるわよ……っ」
最後まで言い切る前に、彼の手が鋭く伸び、穂香の手首を掴み上げた。
怒りを宿した瞳で睨みつけながら、彼は低く唸る。
「結婚をなんだと思っている?遊びか?結婚も離婚もお前の気分次第でいいとでも?忘れたのか、最初に仕掛けたのは――」
「後悔してるの」
伏せた眉毛の影から、淡々とした声が漏れる。
「……」
「清水彰人、あなたと結婚したことを後悔してる。だから、離婚しましょう……っ」
顎を乱暴に掴まれ、鋭い痛みに涙がにじむ。
「二度とその言葉を口にするな!」
歯を食いしばり、彰人は吐き捨てた。
「離婚すれば、もう聞かなくて済むわ。それに、堂々と木村彩と一緒になれるでしょう?一石二鳥じゃない」
痛みに顔を歪めながらも、穂香は皮肉げに微笑んだ。
彰人の怒りは頂点に達した。
「俺と彼女のことに口を出すな!」
吐き捨てるように言い、顎を放すとそのまま背を向け――
ドンッ!
凄まじい音を立てて扉を閉め、去っていった。
俺と彼女のこと……
床に崩れ落ちた穂香は、乾いた笑みを浮かべる。
「……やっぱり認めたのね。」
彰人の沈黙は、そのまま答えだった。
怒りで血が逆流しそうになりながら、彰人は階下へ向かう。
通りすがりに、ポケットから取り出した小瓶――特注の軟膏を、ゴミ箱へと叩きつけた。
……
こうして穂香は、
二年間暮らした「牢獄」のような家を出た。
借りたのは古い団地の小さなワンルーム。
環境は劣悪だが、家賃は月万円と安い。
兄が昏睡して以来、斎藤家は急速に傾き、会社は借金まみれ、家も差し押さえられた。
指輪は売らず、口座は空っぽ。兄の治療費だけが無情に迫ってくる。
必死で職を探したが、
送った履歴書はどれも返事なし。
チリン。
そんな時、スマホにメッセージが届いた。
――大学の友人・伊藤綾子(いとう あやこ)から。
「穂香、仕事探してるって言ってたよね?同級生が新しく事務所を立ち上げて人を募集してるの。今夜七時、金沙灘の個室888に来て。私から話しておくから」
「わかった」
……
夜七時。
約束通り個室の扉を開けた瞬間、蘇禾の足が止まった。
円卓には十人ほど。
その中央に座る二人の姿に、視線が釘付けになる。
――彰人と木村彩。
主役のように並んで座り、楽しげに談笑している。
彰人の瞳は限りなく優しく、木村彩は恋人のように微笑んでいた。
逃げ出したい衝動に駆られたが、
次の瞬間には打ち消す。
浮気したのは彼の方。自分が逃げる必要なんてない。
賑やかだった室内が、一瞬で静まり返る。
視線が一斉に突き刺さる。
軽蔑、侮蔑、嘲笑、そして氷のように冷たい――
彰人の目。
穂香は無表情で、それを見なかったふりをした。
そして、彼女は出席者の半数以上が自分と仲が悪いことに気づいた。
視線を綾子に向けた。
彼女は慌てて俯いた。
その態度で、すべてを悟る。
――これは罠だ。
大学時代、綾子お仲良しだった。
綾子は家柄が悪く、クラスメイトからいじめられていたが、穂香はいつも立ち上がって彼女を守った。
だから今日、綾子が彼女を裏切るなんて、まったく予想していなかった。
「おやおや、誰かと思えば。これはこれは、我らが学園の華、穂香じゃないか!」
甲高い嘲笑が響く。
木村彩に付き従う男・鈴木陽翔(すずき はると)だ。
「華?笑わせるなよ。あの頃、家柄がよかっただけだろう?見ろよ、今や残飯を漁る笑いものだ」
彩の取り巻き・小川美月(こがわ みつき)が鼻で笑う。
この言葉に、何人かが心配そうに上座の彰人をちらりと見た。
穂香と彰人の結婚式は大々的に行われなかったが、この界隈の人々は二人が夫婦であることを知っていた。
穂香がからかわれ攻撃されても、彰人はまったく反応を示さなかった。
まるでそこにいるのが他人であるかのように。
それを見て、連中は確信する。
――噂通りだ。彰人は彼女を愛していない。
結局、少しでも好意があれば、自分の妻がいじめられるのを冷たく見ているはずがない。
人々は思う存分皮肉を言い始めた——
「そうだそうだ!顔もスタイルも、どこを取っても彩にかなわない。性格は陰険で下劣、しかも親友の男まで奪うなんて!」
「しかも手口が汚い!」
「彩を海外に追いやったのもあんたのせいだろ?良心ってものはどこへ行ったんだ?」
「親友に裏切られるなんて、付き合ったやつは不幸の極みだな!」
次々と浴びせられる罵声。
汚水を頭からかけられるように、穂香は静かに受け止める。
ふと顔を上げると、
本当は彩を見るつもりだったが、彰人の視線とぶつかった。
二人の視線。
彼女は必死に抗い、彼は冷たく切り捨てる。
穂香の胸が痛んだ。
八年の想い、二年の結婚生活――そのすべてが犬死にだった。
そのとき、不意に声が響いた。
「やめて!」
制止したのは彰人ではなく、彩だった。
少し跛行しながら駆け寄り、「あなたたち何を言ってるの?みんな同級生なのに、どうして穂香をそんな風に言えるの。あれからずいぶん経ったし、私はもう忘れたわ。あなたたちももう言わないで」
彼女は平静に話したが、その言葉には控えめな悲しみが隠れていた。
「穂香」
穂香の前に来ると、彼女は笑顔を浮かべ、目を赤くして、両腕を広げて愛情のこもったハグをした。「久しぶり、会いたかったわ」
かつての親友を演じるその声。
「私を想ってるんじゃないでしょ」穂香は冷たく突き放す。
「来て、座って。」
木村彩は取り繕うように笑みを浮かべるが――
「結構よ」
手を振り払うと、
彩は大げさに体を揺らし、
空気が一層張りつめた。
陽翔たちは穂香を生きたまま食い殺してやりたいとでもいうような目で見ていた。
彼らが穂香を責めるのを恐れてか、彩はすぐに笑顔を取り繕った。「穂香、仕事探してるんでしょ?私の事務所で――」
「嫌よ」
一言で斬り捨てる。
ざわめきが広がる中、
木村彩は困ったように眉を寄せる。
「……嫌?あんたに何の資格があるの?斎藤家は借金まみれで飯も食えないって噂よ。彩は心優しく過去を水に流してあげようとしてるのに、その恩を蹴るなんて!」