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บท 2: 2. みんな~、マオだよ~!

 魔王城の地下――最深部にある、古の儀式の間。

 千年前、まだ世界が混沌に包まれていた時代。ここで初代魔王が誕生したという伝説の場所だった。

「ささ、陛下。こちらへ」

 リリスが魔法陣の中央を示した。その手には、革が擦り切れた分厚い魔導書が握られている。

「本当に……本当に小娘になるのか……」

 ゼノヴィアスの足が、まるで処刑台に向かう死刑囚のように重い。一歩、また一歩と、運命の魔法陣へと近づいていく。漆黒の鎧が、松明の光を受けて不吉に輝いた。

「陛下」

 リリスが振り返った。その表情は、いつになく真剣だった。

「今の時代を支配するのは『萌え』です!」

「も……萌え?」

 ゼノヴィアスは眉をひそめた。五百年生きてきて、初めて聞く単語だった。

「はい! 萌えです! MOE!」

 リリスはブンと腕を振る。

「可愛らしさ! 儚さ! 守ってあげたくなる愛らしさ! それこそが人間どもの財布の紐を緩める最強の、最高の、究極の魔法なのです!」

 彼女はまるで演説でもするかのように熱弁を振るった。

「特に、ギャップ萌え! 普段は可愛いのに、たまに見せる凛々しさ! あるいは強いのに可愛い! このギャップに視聴者は『尊い』と絶叫し、財産の全てを投げ出すのです!」

「……さっぱり理解できん」

 ゼノヴィアスは頭を抱えた。戦略なら一瞬で理解できる。だが『萌え』とやらは、まるで異次元の概念だった。

「弱々しく、守ってやりたくなるような見た目になれば投げ銭が稼げる……のだな? バカバカしい話だが……」

 その声には、深い諦念が滲んでいた。

「その通りです! ささっ、時間が惜しいです! こちらへ!」

 不安げな魔王を、リリスは半ば強引に魔法陣の中心へと押し込んだ。

「では、始めます。絶対に、絶対に動かないでくださいよ? 失敗したら……」

「失敗したら?」

「いえ、なんでもありません! きっと大丈夫です! 多分! おそらく!」

「おい!」

 だが、リリスはすでに呪文を唱え始め、魔法陣が眩い光を放ち始める。

 七芒星の各頂点から、光の柱が天に向かって立ち上る。古代ルーンが一つ一つ覚醒し、千年の眠りから目覚めたかのように激しく明滅した。

「うおおおお……!」

 ゼノヴィアスの体が、光に包まれる。

「体が……体が溶けていく……!」

 恐怖とも苦痛ともつかない感覚が、ゼノヴィアスの全身を駆け巡る――――。

 次の瞬間、全てが終わっていた。

 薄れゆく光の中、そこに立っていたのは――。

「んお……?」

 もはやゼノヴィアスとは似ても似つかぬ、いや、正反対と言っても過言ではない存在だった。

 月光のような銀色の髪がさらさらと腰まで流れ、まるで絹糸のように細く、光を受けて七色に輝いた。

 長いまつ毛に大きな赤い瞳は、まるで上質なルビーのよう。

 白磁のような肌は透き通り、触れたら壊れてしまいそうなほど繊細に見えた。

 白とピンクを基調としたフリル付きのドレスが、小さな体を包んでいる。

 スカートの裾から覗く細い脚は、白いニーソックスに包まれ、小さな可愛いブーツを履いていた。

 誰がどう見ても――。

 抱きしめたくなるような、守ってあげたくなるような、完璧な美少女。

 それが、マオだった。

「な……なんだ……これは……」

 声も変わっていた。

 地響きのように低く響いていた声が、今や鈴を転がすような、澄んだ高い声になっている。

 恐る恐る、胸元に手を当てる。

 そこには――。

 今まで存在しなかった、柔らかな膨らみが。

「ひゃあああ!?」

 思わず飛び上がって、慌てて手を離す。

 その動きすら、まるで驚いた子猫のように愛らしかった。

「視界が低い! なぜこんなに世界が大きく見える!?」

 一歩踏み出そうとして、よろめいた。

「うわっ!?」

 バランスを崩し、前のめりになる。

「歩きにくい! なんだこの重心は!?」

「あらあら、すぐに慣れますわ」

 クスクスと笑い声が聞こえた。

 振り返ると、リリスも魔法陣に足を踏み入れていた。

「わたくしも変身しますね」

 同じように光に包まれ、その長身でグラマラスな体が、みるみる縮んでいく。

 光が収まると――。

 そこには、手のひらサイズの小さな妖精が、ふわふわと宙に浮いていた。

 透明な蝶の羽が、きらきらと虹色に輝いている。

 頭には小さな花の冠。

 紫のドレスは花びらで作られているようで、動くたびにふわりと広がった。

 まさに、おとぎ話から飛び出してきたような妖精――リリィだった。

「うふふ、この姿も悪くないですわね」

 リリィは空中でくるりと回転し、マオの周りを飛び回った。

「さあ、マオ! 今日からは陛下ではなく『マオ』と呼ばせていただきます!」

「ま、待て! 余は……」

「マ・オ」

 リリィがビシッと指をさした。

「今のあなたは魔王ではありません。駆け出しの美少女配信者、『銀月の剣姫マオ』です! 一人称は『マオ』!」

「マ、オ……?」

「では、本日の特訓メニューです!」

 リリィは魔法で小さなホワイトボードを出現させ、ペンを握った。

「第一、決めポーズ! 第二、自己紹介! 第三、可愛い喋り方! 第四、歌! 第五、ダンス! 第六――」

「ま、待て待て待て!」

 マオは両手を振って制止した。その動きすら可愛らしくて、自己嫌悪に陥る。

「歌!? ダンス!? 余にそんなことができるわけが……」

「やるんです!」

 リリィはピシャリと言い切った。

「陛下は戦場で敵が見知らぬ技を使って来たらそれを理由に逃げるんですか?」

「いや、逃げなどせん。観察し、隙を見つけ撃破する……」

「そう! 配信の世界では歌とダンスは基本! 隙を見つけて撃破してください!」

「いや、しかし……」

「配信者として稼ぐと決めた以上、私の指導には従ってもらいます!」

 有無を言わせぬ迫力でリリィはマオにせまった。

「はぁ……」

「さあ、時間がありません! まずは基本中の基本、決めポーズから!」

 彼女は空中で実演してみせる。

「まずは定番の『にっこりピース』! こうやって、小首をかしげて――」

 くいっと首を傾ける。

「にっこり笑って――」

 満面の笑みを浮かべる。

「指でピースサイン! 『みんな、愛してる~♪』」

「ほ、本気……か?」

 マオの顔が、みるみる青ざめていく。

「はい、マオもやってみて!」

「……やらん」

 マオは腕を組んだ。

「絶対に、断固として、死んでもやらん! 余は魔王だぞ! 大陸最強の……! そんな……そんな媚びた真似など!」

「あら、魔王軍を解散されますか?」

 リリィの声が、急に冷たくなった。

「え……?」

「これをやらないと、視聴者は増えませんよ?」

「うぐ……」

「兵士たちは飢えたままです」

「うう……」

「オーク兵の息子は、今日も『お腹すいた』と泣いているでしょうね」

「や、やめろ! それは卑怯だ!」

「現実です」

 リリィはピシャリと容赦なかった。

 マオは震えながら、おそるおそる右手を上げた。

 人差し指と中指を立てて、ピースサインを作る。

 その手が、ぷるぷると震えている。

「み……」

 声が出ない。

「みん……」

 喉が詰まる。

「声が小さい!」

 リリィが叱咤する。

「みんな……マオ……だよぉ……」

 蚊の鳴くような声で、かろうじて言葉を紡ぐ。

 その頬は、茹でダコのように真っ赤だった。

「ダメダメ! 全然ダメ!」

 リリィは頭を抱えた。

「可愛さが足りません! 愛嬌がありません! これじゃあ一ゴールドも稼げません!」

「いや、魔王に愛嬌なんて……」

「あなたは今【マオ】! 魔王なんかじゃありません!! さあ、もう一度!」

 長い地獄の特訓が始まった。

「はい、歩き方! もっと内股で! ちょこちょこと!」

「ひぃ!」――――

「次は喋り方! 一人称は『マオ』です! 『余』は禁句!」

「えぇ……」――――

「『マオはね~』『マオ、頑張る!』『マオ、お腹すいちゃった』こんな感じで!」

「いや、それは……」――――

「はい、次は上目遣い! こう、下から見上げるように!」

「……」

 特訓は延々と続いた。

「はい、最後に歌います!」

「も、もう限界だ……」

 マオは床に崩れ落ちた。

 小さな体が、ぐったりと横たわる。

 魂が、体から抜け出しそうになっている。

「い、嫌だ……もう嫌だ……」

 マオは頭を抱えて丸まった。その瞳からポロリと涙が一粒こぼれ落ちる。

 五百年生きてきて初めての涙だった。全てを破壊し、世界を恐怖に陥れてきた世界最強の魔王が全てを打ち砕かれて転がっている。

 歌が嫌なだけなのだが――――。

「余は……余は魔王なのに……なぜこんな……」

 その時だった。

 遠くから、微かに声が聞こえてきた。

『陛下は、どこにいらっしゃるのでしょう……』

『きっと、我々のために、何か策を練ってくださっているはず……』

『陛下なら、きっと魔王軍を救ってくださる……』

 兵士たちの声だった。

 疲れ果て、飢えているはずなのに、それでも自分を信じてくれている部下たちの声――――。

 マオは、ゆっくりと顔を上げた。

 赤い瞳に、決意の光が宿る。

「……分かった」

 立ち上がり、リリィを真っ直ぐ見据えた。

「いいだろう。歌でも踊りでも、何でもやってやる」

「マオちゃん……」

「だが、一つだけ約束しろ」

 小さな拳を握りしめる。

「必ず、必ずヒットさせろ! 部下たちを、飢えから救えよ……?」

「もちろんです」

 リリィは力強く頷いた。

「絶対に、魔王軍を復活させてみせます!」

 こうして、特訓は深夜まで続いた。

 魔王城の地下から、時折聞こえる少女の歌声と、妖精の叱咤激励。

 それを聞いた兵士たちは、

「陛下が何か新しい拷問でも開発しているのか」

 と震え上がったが、まさかその歌声の主が陛下本人で、しかも『マオマオきゅんきゅん』などという歌を必死に練習しているとは――。

 誰一人として、想像すらできなかったのである。


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