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บท 9: 009

あの年の冬、航平が実家に帰省した。

 俊介もすでに冬休みに入っていたが、彼は寮に残ることにして、叔母の家には戻らなかった。

 午前中は家庭教師のバイトが二つ、午後は時々、短期の仕事が入る。

 そんな日々を静かに過ごしていた。

その日の午後、俊介が机に向かってノートに書き込んでいると、スマホが震えた。

 寮は冬休みでほとんど人がいない。

 冷たい空気の中、毛布を肩にかけ、湯たんぽを抱きながら、彼はようやくスマホを手に取った。

航平:冬休み、もう始まってる?

俊介:うん、始まってる。

航平:じゃあ、今度ご飯でも行かない?

画面を見つめながら、俊介の胸が小さく跳ねた。

 高校を卒業してから、一度も会っていない。

 メッセージをもらうのは嬉しいけれど、「会う」となると、急に現実味が増して、緊張した。

俊介:……いいよ。

返事を送るまでに、何度も文面を消しては打ち直した。

約束の日。待ち合わせは午後三時だったが、航平からの電話は二時半にかかってきた。

「もう着いた。お前の寮の下にいる。」

俊介は思わず時間を見て、慌てて立ち上がる。

「えっ、早くない!? 今すぐ行く!」

「別に急がなくていいよ。近くで用事があっただけだから。」

 電話越しの声は相変わらず落ち着いていて、それが余計に心臓をドキドキさせた。

階段を駆け下りるたびに、心臓の鼓動が足音と重なって響く。

 外に出ると、航平が建物の前で背中を向けて立っていた。

彼が振り向き、少し目を細めて笑う。

「お前……背、伸びたな。」

俊介は息を切らしながら、照れくさそうに答えた。

「ちょっとだけ、ね。」

「前はもっと小さかった気がする。いつも端っこで縮こまってたし。」

その言葉に俊介は心の中で苦笑した。――あれは、あなたが怖かったからだよ。お金のこともあったし。

昼食には少し早い時間だったので、航平が言った。

「この近くに銀行ある? 登録の電話番号、変更したくて。」

俊介が案内しながら歩くと、航平は昔よりもずっと柔らかく話しかけてくる。

 印象が変わった、と俊介は思った。前よりもずっと話しやすい。

「弦生とは、今もよく会ってるの?」

「ん? ああ、たまにね。」

「やっぱり、帰ってこないんだ?」

「うん。忙しいらしい。」

俊介は少し見上げるようにして航平を見た。

 横顔は、高校の頃とほとんど変わっていない。

 整った顎のラインも、くっきりした目元も、記憶のままだ。

「……どうした?」

 航平が俊介の視線に気づき、首を傾げる。

俊介は慌てて首を振った。

「なんでもない。」

――変わっていないのは、たぶん俺のほうだ。

 その笑顔ひとつで、こんなにも心が揺れるなんて。

冬の外から室内に入ると、俊介の眼鏡はいつも曇ってしまう。

 その日も例外ではなかった。

 真っ白になったレンズの向こうは何も見えず、ぼんやりとしたまま歩き出した彼は――真正面から航平にぶつかった。

「おいおい、前見えてないだろ」

 航平が笑いながら、彼の腕を軽くつかんで横に引き寄せる。

「全然見えないんじゃない?」

俊介は眼鏡を外して、手でぶんぶん振った。

 その瞬間、視界はふわりと霞む。

 裸眼では世界の輪郭が溶け出してしまうようで、思わず目を細めた。

「……眼鏡、曇っちゃって。」

 そう呟く声が少し照れていた。

番号を呼ばれたあと、航平は俊介の腕を持ってベンチへと導いた。

「視力、いくつだっけ?」

「眼鏡が六百度くらい。たぶんもう少し悪くなってると思う。」

 俊介は隣に腰を下ろして笑った。

「前に西村と出かけた時、電車乗る前に誰かにぶつかって、眼鏡が線路の外に落ちちゃってさ。二人で一時間も探したんだ。

 それ以来、西村が“予備持ってこないなら一緒に出かけない”って言うんだよ。」

「はは、文句言うタイプだな。ずっと横で小言言ってたんじゃない?」

「そんなことないよ。……今は、あんまり喋らなくなった。」

 俊介はふと呟いた。

 西村――西村の変化を思い出しながら、「静かになった」と小さく笑う。

その夜、俊介はなかなか眠れなかった。

 特別に何かを考えていたわけではない。

 食事の後もいつも通り勉強をして、ベッドに入った。

 ただ、心のどこかが少しだけざわついていた。

――航平といると、どうしてこんなに落ち着くんだろう。

 秘密にしている気持ちがあるのに、彼の前では不思議と緊張しない。

 心地よい人、そう言えば簡単だけど、それだけじゃない気がした。

時計を見ると、夜中の一時半。

 まるで目が冴えている。

 俊介はベッドから起き上がり、スウェット姿のままスリッパを履いて洗面所へ向かった。

戻っても眠気は来ず、そのまま一階の共有スペースに降り、イヤホンを耳に差し込む。

 英語のスピーチ音声を再生して、なんとなく時間を潰した。

けれど、ふとした拍子に昼間のことがよみがえる。

 曇った眼鏡越しに見えた航平の笑顔。

 手首を引かれたときの、あの温かさ。

思い出すたびに、口元が緩んでしまう。

 ――眠れない夜も、悪くないな。

結局、英語を聞きながら四十分ほど過ごし、朝方ようやくまぶたが重くなった。

 


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