私が十歳になった年の冬。
その時は、あまりにも突然訪れた。
「エリアーナ様」
廊下ですれ違った侍女が、私に囁く。
「塔の鳥は、もうお役御免ですって」
私の足が、止まる。
「……何、どういうこと?」
「ええ。異国の商人に、高く売れるそうですわ」
別の侍女が、意地悪く笑みを浮かべて言う。
「あら、私は処分なさると聞きましたけれど」
処分。
その言葉が、胸に突き刺さる。
父が、ラーラに飽きたのだ。
珍しい鳥として飼い、眺め、そして用済みになれば捨てる。
それは、彼にとっては当然の権利であり、何の躊躇もない日常だった。
どちらにせよ、結果は同じ。
ラーラが、この屋敷からいなくなる。
私の、唯一の拠り所が、また奪われる。
その事実を悟った時、私の頭の中で、何かがぷつりと切れる音がした。
(また、何もできないまま失ってやるもんか)
母を失った時の、あのどうしようもない絶望と無力感。
もう、あんな思いはしたくなかった。
理屈ではない。
ただ純粋に、「失いたくない」という、子供の魂の叫び。
あの時は、母の手を握りしめることしかできなかった。
今なら――今なら、何かできるかもしれない。
その想いが、私を突き動かした。
◇
その夜、私は父の書斎へ忍び込んだ。
父の机の引き出しには、離れの塔の鍵があった。
それを握りしめ、私は雪が降りしきる庭園へと駆け出す。
世界は、白い雪に覆われていた。
音が全て吸い込まれたような、静寂の夜。
私の足跡だけが、雪の上に残る。
でも、それもすぐに消えていく。
塔の扉を開けると、ラーラは窓辺に立っていた。
「エリアーナ……?」
彼女は驚いて振り返る。
「ラーラ! 一緒に、逃げましょう!」
私は、彼女の手を掴んだ。
「え……?」
「父が、あなたを処分しようとしているの! だから、今すぐ――」
ラーラの瞳が、大きく見開かれる。
「エリアーナ、だめよ。あなたまで罰せられる」
「構わない!」
私は、彼女の手を強く引いた。
「私は、あなたを失いたくないの!」
ラーラは、何かを言おうとして――そして、口を閉ざした。
「……わかったわ」
ラーラは、小さく頷く。
彼女は、微笑んでくれた。
けれど、その笑みには、何故かどうしようもない諦念が滲んでいた。
「ありがとう、エリアーナ」
それでも、私たちは、雪の中を駆けた。
冷たい風が、頬を刺す。
吐く息が、白く凍る。
屋敷の裏手、庭園を囲む高い塀。
あそこを越えれば――。
あと少し。
あと少しで――。
「――ッ、ぁああああっ!」
突然、ラーラの体が、見えない壁に叩きつけられたかのように、激しく後ろへ引き戻された。
「ラーラ!?」
彼女は雪の上に倒れ込み、激しく咳き込む。
その首輪が、赤黒い光を発している。
「ごめんなさい……エリアーナ……この首輪がある限り……私は、この敷地から……一歩も……」
ラーラの声が、苦痛に歪む。
首輪が、まるで意志を持った蛇のように、彼女の首を締め上げる。
皮膚が裂け、血が滲む。
「や、やめて……!」
私は、ラーラの体にすがりつく。
けれど、首輪は容赦なく彼女を苦しめ続ける。
この首輪さえなければ。
(この醜い鉄の枷さえなければ!)
その想いが、私の中で、破壊的な衝動へと変わった。
私は、雪に倒れるラーラの首元に手を伸ばした。
呪いを解く、などという理屈ではない。
ただ、この人を苦しめるものを、壊したい。
怒りを煮詰めたような、ぐちゃぐちゃの感情だけが、私の中にあった。
「エリアーナ、だめ……危険よ……」
ラーラが、弱々しく私の手を止めようとする。
でも、私は聞かなかった。
私は、冷たい鉄の首輪を、両手で掴んだ。
そして、渾身の力で、それを引きちぎろうとした。
「――外れて!」
叫んだ、その瞬間。
私の内側で眠っていた、未知の力が――暴発する。
体中から、光が溢れ出す。
眩い、眩い、純白の光。
吹雪の夜を、真昼に変えるほどの輝き。
首輪が、悲鳴を上げた。
金属が軋み、亀裂が走る。
「ああああああああっ!」
私の叫び声と同時に――首輪が、粉々に砕け散った。
破片が、雪の上に散らばる。
「……ラーラ?」
私は、彼女の名を呼ぶ。
彼女は、雪の上で、静かに目を閉じていた。
「ラーラ! しっかりして!」
私は、彼女の体を揺さぶる。
けれど、彼女は答えない。
そして――世界が、歪んだ。
右目の視界から、色が消えていく。
赤が、消える。
青が、消える。
緑が、消える。
全てが、白と黒に塗り替えられていく。
「え……?」
私は、自分の手を見る。
左目には、雪に染まった赤い血が見える。
でも、右目には、ただ白と黒の濃淡しか映らない。
「なに……これ……」
視界が、ぐらりと揺れる。
体が、熱い。
全身を焼き尽くすような、激しい熱。
「ラー……ラ……」
私は、彼女の名を呼ぼうとして――。
意識が、深い闇に沈んだ。
◇
「……ここは?」
目を覚ますと、私は自室のベッドの上にいた。
窓の外は、眩しい陽光。
雪は、もう溶けている。
「エリアーナ様! お目覚めになられましたか!」
侍女が、驚いて駆け寄ってくる。
「……どのくらい?」
「一週間です。高熱で、ずっと……」
一週間。
私は、ゆっくりと体を起こす。
そして――鏡を見た。
映っているのは、見慣れた私の顔。
けれど、何かが違う。
右目。
右目の世界が、色を失っている。
左目には、部屋の赤いカーテンが見える。
でも、右目には、ただ灰色の布が揺れているだけ。
「色が……ない」
私は、自分の右目を、恐る恐る触れる。
痛みはない。
ただ、色だけが、永遠に消えてしまった。
「ラーラは?」
私は、侍女に尋ねる。
侍女は、顔を伏せた。
「……塔には、誰もおりません」
「どこへ行ったの?」
「それは……私どもには」
私は、ベッドから降り、部屋を飛び出した。
庭を駆け抜け、薔薇のアーチを抜けて――塔へ。
扉を開ける。
薄暗い部屋の中は、もぬけの殻だった。
窓辺に、一枚の白い羽根だけが残されていた。
私は、それを拾い上げる。
ラーラがくれた、翼の羽根。
「……ごめんなさい」
涙が、頬を伝う。
「ごめんなさい、ラーラ」
私が彼女を自由にしようとした、その行為こそが。
彼女の命を奪う、引き金になったのだと。
父が、解放された彼女を、決して許すはずがない。
私が眠っている間に、全ては終わってしまっていた。
私は、その羽根を胸に抱きしめた。
そして、塔の窓から、遠い空を見上げる。
右目に映る空は、ただの白い靄。
でも、左目には、青い空が広がっている。
残ったのは、歪な二重の世界。
これが、私が支払った代償。
そして――。
右目の視界の端に、何かが見えた。
黒い、炎のようなもの。
それは、庭を歩く奴隷の体から、揺らめくように立ち上っていた。
「これは……?」
私は、目を凝らす。
侍女たちからも、その悍ましい炎は、立ち上っている。
「呪い……?」
なぜか、私にはそれがわかった。
色を失った右目は、代わりに、この世界に存在する呪いを視認できるようになったのだと。
私は、自分の手を見る。
何も映らない。
私には、呪いはかかっていない。
でも、この世界の誰もが――呪いに縛られている。
「そう……これが、私の力」
私は、白い羽根を握りしめた。
ラーラ。
あなたを救えなかった、この力。
でも、いつか――。
「私は……わたくしは、必ず……」
いつか、この力で、この世界を縛る全ての鎖を砕いてみせる。
それが、私にできる、唯一の贖罪。
「この狂った世界をぶち壊す」