第7章 ― 約束と血の香り
エンヴェルはハンドルを強く握りしめた。
ゆっくりと進む車の中、彼の心は疑念と喪失感に締め付けられていた。
タドリック…マルヴァ…フリア…
それらの名が、消せぬ呪文のように頭の中を巡る。
彼はそっと目を閉じ、胸の奥底から一つの問いが浮かび上がった。
「マルヴァ…お前はただの人間じゃない…本当は何者だ?」
マルヴァには、どんな弱い霊的存在さえも取り憑かない。
ありえないことだった。
人間に化けた存在か、あるいは感情を持たぬ人間か。
どちらにせよ、危険すぎる。
車は、細い路地に隠れるように佇む小さな香水店の前で止まった。
桃の香りが、エンヴェルの足取りを迎える。
「おお、若旦那エンヴェル・エラリー!久しぶりだねぇ。」
店主エンドリが、温かな笑顔で迎えた。
エンヴェルは古びた木の椅子に腰を下ろし、挨拶には答えなかった。
「また難しい顔だ。…フリアのことかい?」
「桃の香水だ。早く。」
エンドリはくすりと笑った。
「まだ香りで彼女を見つけようとしてるのか。父上の時と同じだな。だがフリアの体香は香水じゃない…あれは魂の匂いだ。」
エンドリは透明な液体の瓶を差し出し、古びた布袋から小さな薬を取り出した。
「これを混ぜな。香りが変わる。それで…探せるだろう。」
液体は空色に変わった。エンヴェルはしばらくそれを見つめる。
「…見つけられるのか?」
「諦めなければな。でも、お前は疲れている…希望を失いかけてる。」
「時々思う…患者の体に棲むあの存在が、もし彼女だったら…と。」
エンドリは深く息を吐く。
「…お前は、もう一人傷つけた。俺だ。馬鹿な若造め…心配させるな。まるで父上の時と同じだ。」
エンヴェルはかすかに笑みを浮かべ、店を後にする。
だがその背後、エンドリの後ろに一つの影が現れた。
「いつまであの子を子ども扱いするつもりだ?」
「…俺はただ、守りたいだけだ。」
「遅すぎる。妻は…今、私の手の中だ。」
エンドリの表情が凍る。
「…嘘だ。」
「言ってやれよ。間に合うならな。」
見えぬ短剣がエンドリの皮膚に触れ、呪いを注ぎ込む。
彼の命は、もう数日のものとなった。
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丘の上。
エンヴェルは香水を川へ注ぎ込む。水面は空色に染まり、彼は水の精霊に祈った。
その香りが彼女へと導くように。
だが現れたのは黒い白鳥だった。
「やっと…見つけた。」
その魔性――ベラクは、長くエンヴェルを狙っていた。
今はちょうど、獣形の霊的存在にとっての「発情期」だった。
「…何の用だ?」
エンヴェルはベラクの世界へと引きずり込まれる。
そこは無数の白鳥が舞う湖。
中央には、ヘルゼーアが死を迎えるための巨大な寝台があった。
ベラクは妖艶に笑う。
「お前は私のものになる。彼らは私の力を受け止められず死んだ…だが、お前は違う。」
エンヴェルの体は動かない。
白鳥たちが奏でる、心を縛る旋律が響く。
ベラクは彼に毛皮のマントをかける。
「眠れ。永遠に…私と共に生きるのだ。」
エンヴェルはわずかに笑みを見せる。
だが胸の奥で、フリアの記憶が脈打つ。
彼は儀式を受け入れた。
自らの血をベラクの体内に流し込む。
やがてベラクは眠りに落ち、その腹が膨らみ始める。
旋律はさらに大きくなる。
エンヴェルは静かに立ち上がり、白鳥たちを見据えた。
「…それがお前の望みなら、望み通りにしてやる。」
部屋に戻り、彼は囁く。
「いつまで寝ているつもりだ、ベラク?」
ベラクは驚愕の表情を見せた。
エンヴェルは淡々と告げる。
「そんなに驚くな。俺は無事だ。だが…お前は――」
ドクッ。
血が滴る。
新たな幕が上がった。
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一方その頃、別の世界で小さな二人の霊的存在、ウルクルとスパンクが遠くからその様子を見守っていた。
彼らはフリアの居場所を知っていた。
「助けに行かないと…彼は昔、俺たちを救ってくれた。」
「…わかったよ。」
二人は冥界を後にする準備を整える。
そして遥かプルーフェンで、マルヴァはエンヴェルの部屋の扉を開いた。
人間界と闇の世界は、ゆっくりと交差し始めていた。
すべては――香りから始まる。
エンヴァーは、罪を見つめ、その罪を燃やし尽くす「浄化者」。
だが……その浄化者を浄化する者は、誰なのか?